ミッターマイヤーの奥方は、どうやら夫の帰りを待っていたようだ。事前に何時頃帰宅出来るか、その程度の話はしておいたようで、それに合わせてわざわざ歩道まで出てきたのだった。 彼女の導きに助けられ、俺はこの住宅街からこいつの家を探し出す苦労をしなくて済んだ。 もっとも、こいつの体重を支えるのには、彼女の助けを得る事は出来ない。彼女が手伝うように言い出しても、俺は固辞しただろう。俺は女に対しては、礼儀としては優しい男なのだから。 「――何処に連れて行けばいいでしょうか?」 綺麗に片付けられている家の中、俺は親友を担ぎながら彼女の後ろを歩く。生活感はそれなりにあるが、汚れは全く目立たない。新居を構えてまだ日数が経っていない事もあるのだろうが、彼女が良く掃除をしているのだろう。良い妻らしい。 そんな中に酒の匂いを振りまく男がふたり。それを妙に情けなく感じる。 ともあれ、俺の声に彼女は振り返る。背が低い夫よりも更に低いため、俺を見上げるのは大変だろう。俺を見上げる顔はにこやかに微笑んでいる。夫に似て、人懐っこい瞳をしていると思う。 「それでは寝室までお願い出来ますか?」 「…判りました」 俺の返答を聞くと、彼女はすぐさま前を向く。クリーム色の髪が中空を舞う。足取りは軽い。――何がそんなに楽しいのやら。俺はそう思う。彼女の歩み方があまりに軽やかなので、俺は彼女が妙に楽天的であるように感じたらしい。 ちなみに家の中に連れられ、妻と俺にも一定回数呼びかけられても、ミッターマイヤーの奴は全く目覚める気配を見せない。俺の方がぴんぴんしているせいで、まるで俺が奴を故意に酔い潰したように思われかねない状況だ。 彼女に従い、俺はある一室に辿り着いた。ふたり暮らしなのでそれ程広い家ではない。 そこは寝室だった。俺も以前から、独り身の奴を送り届けた時に奴の寝室に上がり込んだ事はある。奴の独り暮らしの時も、狭い部屋ながらもある程度は片付いていたものだった。 俺はベッドの前に立ち、重い荷物をようやく降ろした。――少し位乱暴に扱った方が、却って起きてくれていいのではないだろうか。独り身の時なら俺もそうしただろう。しかし隣に奥方がいらっしゃる以上、奴を無碍に扱う事は出来ない。 丁寧に降ろしてやり、軍服の上着を脱がせてやる。案の定、全く起きない。酔い潰れているのだから、少々具合が悪くなる事も考えられる。が、現状は気持ち良さそうな顔をしていた。口元から寝息を立てている。蜂蜜色の前髪が目許に掛かっていても、全く鬱陶しくはないらしい。 今までも俺は酔い潰れたこいつをベッドに寝かせた事はあるが、今回は妙にベッドを広々と感じる。そこで俺はこのベッドが今までとは違い、ダブルベッドである事に気付く。――何となく、嫌な気分がした。 俺の心が狭い事は、今までも良く判っている。心が広い俺の親友とは、正反対だ。 「――良くお休みになって…お疲れなのでしょうね」 俺の気を知らずに、隣に立つ女はそんな事を言った。俺はそれに対し、曖昧に頷く。 確かに俺達の仕事は厳しいものが続いていた。その合間で暇を見つけ、今日酒を飲んでいた。それでこいつは疲れが出たのかもしれない。 或いは――俺が傍に居て、自宅には妻が居るのだから、疲れを出してもいいと、思ったのかもしれない。だとしたら、本当にスイッチの切り替えが上手い奴なのだろう。 俺は顔を上げた。自分の軍服を軽く直した。意識的に口元に微笑を浮かべ、彼女に言う。 「――それでは私はこれで失礼させて頂きます」 「お帰りになられますか?」 すみれ色の瞳が、俺を意外そうに見上げた。何を言い出すのかと思う。確かに明日は休みだが、自宅に帰るに越した事はない。それに今までとは違い、奴は独り身ではないのだ。俺と奴の間に女が居ては、つまらない事この上ない。 ――そう。全くつまらない。 奴が結婚してしまった事が、俺には全くつまらなくて仕方がない。 一生付き合っても、背中を任せてもいいと思っていた戦友が、実は戦場外にとても大切なものを抱えていたと知った時、俺はその存在に嫉妬していた。 女とはつまらない生き物だ。偏った考えだとは思うが、俺はそう信じている。 そんな生き物を、奴は信じ愛し、遂には身を任せてしまった。全くもって下らない事をしでかしたと思う。口には出さないようにはしているが。 俺は内心の渦を押し隠す。そんな俺を、彼女は見上げていた。本当ににこやかだ。疑う事を全く知らないかのような。 「――コーヒーを淹れてますから、一杯だけでもいかがですか?」 …そう言われては、俺も彼女を無碍には出来ない。俺のためにコーヒーの準備をしてくれているとするならば、それを固辞して帰る事は却って礼儀に反する。俺は内心、女を蔑視しているが、礼儀だけは忘れないように拘っていた。 彼女とて、他の女のように俺に好意を持っている訳ではあるまい。単に、俺が夫の友人であるから、礼儀を忘れないようにしているだけなのだろう。 そう思うと、茶番劇に他ならないなと思う。内心、俺は冷笑した。 |