ふと、俺は気付いた。――おい、普段と風景が違うぞ? 行き先は、すっかり潰れてしまっているこの男がタクシーに告げたはずだ。そしてそれはこいつの官舎だったはずだ。酒場で酒を飲んだ帰りには、こんな風にタクシーに相乗りする事で互いの官舎に帰宅するのが常だった。だから、俺もこいつの帰宅先は良く判っているはずだった。 しかし…この通りは違う。酔っ払って間違える事もあるのだろうか。だとしたらタクシーを拾い直さなくてはならない。もう少し早く気付いていたら、先程のタクシーをまた使ったのだが…。 …そもそもこいつの官舎は何処だったか?俺は正直住所までは記憶していない。手帳には書いておいただろうか。――いや、そもそも潰れているのだから、いっそ俺の屋敷まで連れて帰った方がいいのではないか? どちらにせよ、タクシーを捕まえない事には話にならない。タクシーを呼び出すにしても、もう少し人通りが多い所にまで行った方が楽だろう。やれやれと俺は再び溜息をつき、肩に担ぐ腕を掴み直した。せめて起きてくれたら楽なんだがな。 俺がそう思い、歩道を歩き始めようとした時の事だった。 「――すいません」 俺の背後から声がした。高い、女の声だ。 正直、俺は通りすがりの女に声を掛けられる事にはとても慣れている。俺にとって有り触れた出来事だ。だからごく普通に振り返った。――またか。表情には見せないが、内心そう思ってうんざりしつつ。 そこに立っていたのは、果たして背の低い女性だった。俺は彼女を一瞥した。家の中から出てきたままであるような、私服姿だ。この辺りの住宅地らしく、平民の女か?その髪は長く、背中にまで届いている。その顔は――と、俺がふと、脳内のデータベースに引っ掛かりを感じた、正にその瞬間。 「ロイエンタール少佐でいらっしゃいましたよね?」 先に女の方が俺の名を呼んだ。 名を知られている事自体は、俺にとって全く意外な事ではない。俺は漁色家としてこのオーディンで有名だった。別に俺が自分から喧伝している訳ではないが、何故だかその手の女達には俺のその悪名と戦績と容貌だけが伝わっているらしい。 が、この女は何と言ったか?――俺を前から知っている、会った事があるような言い方ではないか。しかし、確かに俺の記憶にも引っ掛かりがない訳ではなく…。 そんな俺に対し、彼女は深々と頭を下げた。 「夫が大変お世話になっております。今晩も送って頂いたのですね。ありがとうございます」 ――その台詞に、ようやく俺は思い至ったのだ。 ああ、ミッターマイヤーの奴は、結婚したのだと。 だから独身用の官舎から妻帯者用の官舎に居を移したのだ。俺は未だに今の官舎を訪れた事がなかったのだから、この目の前の風景に見覚えがなくて当然だ。 俺は一応奴の結婚式に顔を出してはみたが、儀礼的な挨拶だけ済ませてさっさと帰ったのだ。しかしその際に、ミッターマイヤーからこの妻を紹介されている。だから俺と彼女は初対面ではない。 俺は彼女を重要な人間として扱っていないから、脳内のデータベースでの重要度は低かった。だから思い当たるのに時間が掛かった。むしろ、女の顔などをよく覚えていたものだ。それに対して彼女にとって俺は「夫の友人」であり、かなりの重要度を占めているのだろう。儀礼的な出会いでしかなかったが、その後も夫から話を聞かされていたのかもしれない。 |