犬が夜闇の中に消えると、彼はゆっくりと僕の方に向き直った。何時の間にかに風が収まり、彼のマントと髪から揺れが収まり、あるべき所に停まった。彼は手の中の銃を地面に向け、慎重に腰のホルスターに収める。
 僕はそれを只眺めていた。彼を現実離れした存在のように感じてしまう。――犬が死の具現化なら、彼は一体何だろう?そんな事を一瞬考える。が、それも変だろう。犬は明らかに現実の生き物だった。犬達は僕に襲い掛かってきたし、あの息や垂れてきた涎の感触は僕の体にしっかりと残っている。
「――大丈夫かい?」
 唐突に声がした。草を踏み分ける足音。大きく確かな音で、どうやら早足で僕に迫っているらしい――と思っていたら僕のすぐ傍に彼はしゃがみこむ。僕の顔を覗き込んできた。顔を付き合わせる格好になるが、僕は思わず彼から顔を背けてしまう。
 ――だって、僕の顔なんか見たらきっと――そう思ったのだが、良く考えたら今僕の片目は包帯で塞がれているのだった。ならば別に隠す事はないか。思い直し、僕は恐る恐る彼の方を見た。
 一旦顔を反らした事で機嫌を損ねてなければいいが、と思ったが別にそんな事はないらしい。人見知りする子――とでも思っただろうか。とにかくそこにあったのは、大人のくせに大きくて人懐っこい瞳だった。さっきまであんなに物騒な殺気を帯びていたくせに、そんな気配は今は全く見せない。
「野犬に襲われるとは物騒だったね。ちょっと診せて御覧」
 大きな手が僕の髪をそっと撫で、それからその優しい手で僕の頭をゆっくり支え、その場に寝かせる。手際よく僕の服を緩めて、僕の体のあちこちを探る。優しいが有無を言わせないその態度に僕は半ば呆れた。が、彼が体に触れても僕は特に酷い痛みを覚えはしないので、彼の処置は適切なのだろう。だから抵抗はしなかった。
 が…その合間に、僕に色々物をくれるのはどうかと思う。水筒はまだ判るんだけど、チョコレートバーとかを持ち出してくるのは一体。どうやら携帯食の一種ではあるらしいけど、笑顔で差し出されると微妙な気分になる。
 しかし遠慮している場合ではない。命の危機を脱した今、食物を目の前に出されると体がそれを欲していた。助けてくれた上に施しまでしてくれるのだから、とてもありがたい人がいてくれたものだと思う。
 傷を診てくれたらどうせ別れる事になるんだから。僕はまたひとりになるのだから。
 それにしても、彼は何者なのだろう。頼みもしないのに僕の命を救い、食物を分け与え、傷の手当てまでしてくれる。僕にここまで関わってくれる人は今まで居なかった。何の得もないのに僕に関わってくる人なんか居なかった。
 僕は彼が丁寧に傷を診てくれている姿を眺めつつ、貰ったチョコレートバーを齧る。携帯食だけあって旨い物ではない。只甘いだけだった。それでも最低限のエネルギー源にはなるのだろう。
 ふと、自宅で出されていた食事を思い出した。世話をしてくれていた使用人達の事も。質はかなり高い食事。愛情は――どうだったのか。
 だから――今更、何と言う事でもないけれど。

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