不意に、衝撃がした。そして、腕に伝わっていた力がいきなり消滅する。
 圧し掛かる犬から視線を反らしていた僕は、枝が折れたのかと思った。最期の時が来たのかと思った。しかしそれは違った。
 僕の視界から、圧し掛かっていた犬がすっ飛んで行ったのだ。何かに弾き飛ばされるように、僕の体の横方向に犬が薙ぎ倒される。口から枝が外れ、僕の腕は力余って枝を掲げて伸び切った。肘の関節が音を立てる。
 向こう側で犬の体が横倒しになる。大きな音がして草がたわむ。――その脇に、何かがバウンドする。何だ?僕は視線を投げかける。伸ばす必要がなくなった腕を曲げ、体ごとそっちの方を向こうとした。
 その時、冷たい風が反対側から吹いた。抵抗により熱くなっていた体に心地いい風だった。僕は思わずそちらの方を向く。すると、犬達もそちらの方を向いていた事に気付いた。
 淡い月明かりを背後に、人が立っていた。
 薄暗いのであまり姿は判らないが、暗い色を基調とした上に銀の彩りがある衣服。そして微かな風にたなびくマント。明るい色の髪の毛は肩の辺りにつくような状態で――背格好からしては大人であるように思える。
 その片手には銃らしきものが握られていて、こちらに向けられていた。段々目が慣れてきて判ってきたが、その表情は厳しい。
 犬達が唸り声を上げる。僕から体の向きを変え、明らかに彼を威嚇するような状況になっている。僕はそれに乗じて反対側を見た。さっきまで僕に圧し掛かっていた犬の方を見る。どうやら傍らには石が転がっているらしい。それを、ぶつけたのか。彼が、その石を投げつけたのか。――なら、彼は僕を救ってくれた?
「――お前達」
 不意に声が響いてきた。威圧するような立派な声。僕はその声が、その人から発せられたと一瞬気付かなかった。しかし犬達は気付いたらしく、毛を逆立てた。唸り声が数匹分重なる。が、彼の威圧には敵わないように思える。犬達は威嚇しつつも、腰が引けているように思えるからだ。
 犬達の威嚇に対し、目の前の大人は全く臆しない。ゆっくりと銃を胸の辺りに掲げ、犬に対して狙いをつけるような素振りを見せる。
「ここから離れろ。俺の前から去れ。そうすれば何もしない」
 命令口調ながら、声も荒げない。落ち着いている口調。動きも滑らかで無駄がない。なのに、酷く威圧感がある。綺麗な帝国共通語で綺麗な発音をしていた。
 目が慣れてきて、彼が纏っているのが黒を基調とした衣服であると判る。僕の記憶を辿ると、軍服にも似ている。が、僕の記憶が確かなら、デザインが違う。別の団体の人なのか…僕には判らない。
 犬達が一斉に、不意にこちらを向いた。ゆっくりとした歩みが数歩、僕の方に進められる。目の前にいる大人に威圧された事により、攻撃性が僕に向いたか。それでも微妙に腰が引けている状態ではある。だから、僕に怯えの感情は浮かばない。
「――待て」
 彼らの背後からそんな言葉が威圧感たっぷりに投げかけられ、犬の毛が見事に逆立った。犬の足が止まる。僕から数歩先の辺りで犬がまごついたように彼を振り向く。
 言葉の内容が判っている訳ではあるまいに。完全に犬は彼に威圧されてしまっている。萎縮しているのが僕からも判る。おそらく――犬に抵抗する前の僕のように。
 彼は犬達を真っ直ぐに見据える。あくまでも落ち着いた態度だ。低い声が彼の口から発せられる。
「俺だけではない。その子にも手を出したら――」
 ゆっくりとした口調で、一語一語噛み締めるように言いながら、彼が眉を寄せる。
 不意に、空気が張り詰めてきた。冷たい風が吹いてくる。風の波が草を揺らす事で進路を示す。それが彼に届くと、彼が纏っているマントがたなびいた。風を含んで大きくたわみ、彼の体を大きく見せる。月明かりに照らされたそれは、血のように赤い色をしていた。
 彼の髪が風によって流れを作る。空気を含んで髪が外側に広がる。
「――貴様ら全員殺す」
 …彼が発した言葉とその雰囲気に、僕も自らが鳥肌を立てている事に気付いた。
 彼の髪とマントがたなびいているのは、風のせいだ。そうに違いないのに――まるで彼の中から発せられた圧力によって風が吹いているように思わされる。僕は見えない手に心臓を鷲掴みにされたような気分になり、体が冷たくなる。息をするのも苦しい。
 僕は確信した。これが正真正銘の「殺気」と言う奴だ。
 その殺気は僕に対してぶつけられている訳ではない。なのに僕は鳥肌を立てている。ならば、本気でこの殺気をぶつけられた側はどうなっているのか。
 果たして犬達は尻尾を巻いていた。耳を低くし、頭を下げる。くうんと鼻を鳴らし、僕の前からとぼとぼと歩みを遠ざけた。かと言って彼の方に行く訳でもない。一瞬彼に視線を向けたが、彼の慈悲を請う事は敵わないと知るや、別の方向に歩いていく。それが5匹全員に起こった。
 微かに音を立て、彼が銃を犬達の方に向ける。すると弾かれたように犬達が走り始めた。彼の前から一斉に逃げ始める。彼は犬達から視線を外さない。微動だにせず、銃を向けた姿勢を保つ。
 薄明かりの中、犬の姿がどんどん遠ざかって行く。そして夜闇の中に彼らは溶け込み、僕の目で追う事は出来なくなった。

[next][back]

[NOVEL top] [SITE top]