僕は体を引き摺って進み続けている。耳元では草が鳴る。鼻腔からは土の匂いが伝わってくる。流石に疲れてきて、息が上がってきた。腕に痺れを覚える。が、視界には草原しか映らない。 どれ位進んでいるのかも判らない。こんな非効率的な進み方しか出来てないんだから、自分の想定と較べても全く進んでいないのだろうと思う。 大きく息を吸い、僕はその場に突っ伏した。腕によって抑えられ倒されていた草の上に、顔が落ちる。この痛痒い感覚にも僕は慣れてしまった。すっかり息が上がってしまっている。顔やその他の肌に汗が伝う感覚。そしてちょっとしみて痛い感覚。…きっとあちこちに擦り傷を作ってるんだ。 馬鹿みたいだ。どうしてここまでして僕は進んでいたのだろう。結局僕は救われそうにないじゃないか。この草原に終わりはなさそうで――僕が救われる道もなさそうだ。 誰にも必要とされないのに、泥にまみれて生きて何になる? 僕はそんな事を思っていた。が、ふと気付いた。 ………何も音がしない。 今までは遠くから何かの音がしていた。鳥の鳴き声か、風が草をなびかせる音か、そんな音が微かに届いていた。耳元では自分が足掻いて出す音が延々と鳴らされていたが、遠くからはそんな音も確かにしていたのだ。 しかし、今はその音が完全に消えた。静寂だ。 空気が張り詰めている。冷たい感触。異常な状況――緊張感を僕は感じた。何だこれは。どうした――僕がそう思いながら、震える腕で上体を起こそうとした。動かない足を伸ばして、その場に座り込む体勢に移していた。 耳が、草を踏み分ける音を伝え聞いた。 微かな音だ。しかしそれを聞き取れる今の状況は、緊張感は異常だ。その音がどんどんと近づいて来る。音の数が増えてくる。 背の高い草の向こうに僕は視線を寄越すと、そこには背が低い物体が動いていた。それらは草を掻き分けてどんどん僕の方に近づいてくる。 片目で遠近感が取れない僕の視界にも、それらが何かようやく判って来た。 犬だ。それが数頭。 中型犬と言うサイズだが、その雰囲気はどうにも友好的とは言えない。ゆっくりと、慌てる事無く、僕を半円状に取り囲むようにして、彼らは迫ってくる。彼らが草を踏む音が妙に大きく聞こえる。そして、口元から漏れているらしい息遣いも感じられる。 ここは彼らの縄張りだろうか。それを犯した者に制裁を加える気だろうか。それとも、単に餌を見つけたと言う事か。 どちらにせよ、僕は無事では済まないだろう。特に後者ともなれば、確実に命はない。 ああ、結局僕はここで死ぬのか。そんな諦めを感じた。 犬が唸り声を上げている。まだ距離があるのに、彼らの息の匂いが感じられる。風向きのせいだろうか。しかし風は肌には感じられないと言うのに。そのくせに、犬の体臭は感じられない。何処となく非現実的な趣だ。 或いは、彼らは犬と言う形を取った、死の具現化なのだろうか。僕を殺すために生まれてきただけなのだろうか。――馬鹿馬鹿しい考えになってしまうが、僕に死が迫ってきているのは確かだ。 犬とは言え、大きな口。その中に並ぶ牙は鋭そうで、噛まれたら痛いだろうと思う。出来る事なら一撃で殺して貰いたい。あまり痛い目には遭いたくない。――これ以上、痛い事はしたくない。 …まあ、彼らの餌になるのなら、僕にも少しは存在価値があったと言う事になるのかな。ふとそんな事を思った。 ある程度の距離を保ったまま、彼らが歩みを止めた。僕を取り囲み、じっと見つめている。値踏みするように無遠慮に見る瞳と、僕の片目が視線上でかち合う。今更僕が動いた所で逃げられはしないだろう。むしろ、僕が怯んで動いた時が彼らが襲い掛かる時だろう。 体が冷たくなってきた。息苦しい。座り込んだ体を支える手が、地面に這っている草を掴む。少し痛い感触が伝わる。 ――ああ、死ぬんだ。もう、それで決まったんだ。 僕の心にそんな言葉がよぎる。 不意に、怖くなってきた。歯を食いしばる。やはり死んでしまった方がいいとか言いながら、実際に死が迫ってくると、それを受け入れる度胸がないのか。それとも、これが正当な生存本能なんだろうか。どちらにせよ、僕のそんな生にしがみつこうとする心を、彼らはこれから圧倒的な力で粉砕するのだろう。 もう死んでしまった方がいい。――でも、死にたくない。 そんな、相反する気持ちを抱いたまま、僕は迫り来る死を見据えていた。 |