親友同士の会話が途切れると、室内には沈黙の帳が下りる。閑静な住宅街だけあって、日が替わる時間帯には外からの物音が殆ど聞こえてこない。
 不意に、壁時計の針がかちりと進む音が室内に響いた。その音にミッターマイヤーは我に返る。自らの髪を無造作に掴んでいた手をそっと引き剥がした。掌と頭の表皮と、両方ともが熱を持っているように感じられた。やはり酔っているらしいと彼は自己判断する。
「――それでは俺は自室で休むからな。卿は好きにしろ」
 ミッターマイヤーはロイエンタールにそう声を掛けた。相手の眠気を邪魔しないよう、僅かに声量を落としている。
 それからミッターマイヤーは意識して靴音を消して歩き、壁際の室内灯のスイッチをいじった。天井に取り付けられたライトの光量が最小限までに抑えられる。不便な点もあるかと考慮して、消し去る事はしなかった。
 うっすらとした暖かい色の灯りが室内をほのかに照らす。その明るさではミッターマイヤーからはロイエンタールの細かい様子は窺い知る事は出来なかった。――何も言わないから眠ってしまったのだろう。彼はそう判断し、見られている事を期待しないまま片手を挙げた。そのまま居間から出て行こうとした。
 その背中に、はっきりとした声が投げかけられた。
「――…おい、ミッターマイヤー」
 それは大きな声ではなかったが、普段のロイエンタールと変わらない張りのあるものだった。多少は酔いも眠気もあるのかもしれないが、それらは彼の言動を妨げる程ではない。そのような印象を与える。
 呼び止められた格好になるミッターマイヤーは、その場に立ち止まる。思わず靴音が軽く鳴り、静謐なる室内に不自然に高い音を響かせた。それに対してミッターマイヤーは少し眉を寄せ足元を見、ついで室内を振り返る。先程よりはこの光量に瞳が慣れてきたようであったが、それでもロイエンタールの表情などを窺うには彼が立つ場所からは距離があり過ぎた。
「どうかしたか?ロイエンタール」
 ミッターマイヤーは部屋の入り口からそれ以上歩みを戻す事はしなかった。普段と変わらない口調で室内に呼びかけた。
「…やはり卿が独り身ではつまらぬな」
「…何だそれは」
 室内から返ってきた言葉にミッターマイヤーは再び眉を寄せた。今晩色々と揶揄された事柄を思い出す。彼が朴念仁である事はどうも親友には格好の標的であるようで、稀に今晩のように行き過ぎた冗談まで呼び起こしてしまう。
 ――同じ日にまさか同じ事を繰り返す気か?彼は戸惑いを覚えるが、それでも自分が揶揄されるとしたらあまりいい気分はしない。
 薄明かりの中のロイエンタールの様子は、相変わらずミッターマイヤーには良く判らない。只ソファーに横たわったままである事だけは見て取れた。その毛布が僅かに動き、次いで声がミッターマイヤーに聞こえてきた。
「――折角だからもっとまともな食事がしたかったな。早く奥方を呼べ。今日は何だか彼女の料理が懐かしく思えた」
 その台詞に、ミッターマイヤーは虚を突かれた。表情がぽかんとしたものになる。まさかロイエンタールの口から自らの妻の話題が出るとは思わなかったからだ。
 そして彼は脳内で親友の台詞を反芻し、どうやらその台詞は自らの妻を褒めているらしいと言う事に気が付いた。彼の表情はどんどん緩んでいく。見ていて面白いまでに感情が表れていたが、生憎室内は薄暗いためにロイエンタールからも彼の顔は見えなかっただろう。
 やがて、ミッターマイヤーは自分がやたらにやけている事に気が付いた。が、それを抑制する事は出来ない。彼は自らを褒め称えられる事には居心地の悪さを感じる人間であったが、彼の周囲の人間が褒め称えられる事には喜びを隠さない人間だった。
「…自分勝手な事を言うな」
 ロイエンタールに対してミッターマイヤーはそう言った。彼は自らの髪を掴んで掻き回すが、その仕草で彼の表情を誤魔化す事は出来なかったし、そもそも声の調子からして浮かれていた。親友でなくとも、ミッターマイヤーの感情はあけすけに判った事だろう。
 しかしロイエンタールはそれを敢えて指摘する事はしなかった。相変わらず横たわったまま、台詞を継ぐ。
「戦時ならともかく、平時においてわざわざ不味い食事を望む程、俺は奇特な人間ではない」
「不味いとか言うな。俺だって時々あの程度の冷凍食品やレトルトに頼るんだ」
「ならば卿は余程奇特なのだ」
「あれはあれで、俺は結構好きだけどなあ」
「暫く奥方の料理を口にしていないからか、舌の水準が随分落ちてはおらぬか」
 静かな室内、薄明かりの中で距離を保ったまま会話が続く。ふたりの声の調子はそれ程通常の状態と変わりを見せない。
「――と言う事はだ。貴族趣味のロイエンタール元帥閣下から、エヴァの料理の腕はお墨付きを頂いたと言う事か」
「…ああ…それは認めよう」
 ロイエンタールのこの台詞には、微妙に眠いような面倒臭いような、そんな成分が含まれていた。空調が行き届いた部屋で寝心地がそこそこにいいソファーに横たわり、毛布に包まれている。酒を程好く飲んだ後のため、流石に眠気に襲われつつあるようだ。だから話を打ち切りたくてこのような返答をしたのかもしれない。
 が、ミッターマイヤーは素直だった。ロイエンタールの返答に対して顔を綻ばせていた。幸せそうな笑顔を浮かべ、まるで任務が上手く行った時かのように拳を力強く握り締めていた。

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