それからロイエンタールは体を親友から引き剥がした。片手を挙げて、居間に戻ると告げて踵を返す。
 ミッターマイヤーは彼に対して何も言わないまま、只皿を洗っていた。元々大して難しい訳ではない作業であったから、手早く進んでいく。親友の遠ざかる足音が水音に紛れている。その靴音が耳に入るか入らないかと言うレベルになった頃、ミッターマイヤーは口を開いた。
「――…あの女自身に罪がある訳ではないからな」
 それは呟くような声であった。台所の入り口付近まで歩みを進めていたロイエンタールにとっては、水音に紛れて聞こえるか聞こえないかと言うレベルだった。彼がそれを聞きつける事が出来たのは、おそらく相手が親友であり、現状の展開上少しでも反応を返して貰いたかったからだろう。
 が、彼には自分が聞き取った言葉の意味が判らなかった。足を止め、ミッターマイヤーの方を向く。彼の親友は相変わらず流しに向き直っていた。
「おい?ミッターマイヤー?」
 ロイエンタールが親友の名を呼び、聞き返す。ミッターマイヤーはそれに反応せず、洗っていた皿を籠の中で重ねる。柔らかな室内灯が皿に残った水分を弾いて光を返していた。
 ミッターマイヤーが皿を重ねると、皿が擦れる音がする。最後の皿までが片付いた時、ロイエンタールは親友が肩を揺らすのを見た。どうやら溜息をついたらしい。そして親友の声がそれに続いた。
「卿がそれを望むなら、俺は…――応援してやっても良い」
「おい…どうした?」
 ミッターマイヤーが蛇口を捻り、水音が止まる。ロイエンタールにとって親友の発言は突拍子もない事だった。沈黙と溜息の後に発せられた発言なのだから、ミッターマイヤーとしてもかなり考えてのものなのだろうと、彼は判っていた。しかし、それにしても突拍子もない。
 ――何を…応援するだと?
 どうも先の発言と合わせて考えるに――あの女か?あの女と俺の関係を、応援するだと?
 …いや待て。今までのミッターマイヤーの態度と発言からは、明らかに食い違う。俺の考え違いだ。
 彼は脳内でそう結論付けようとしていた。が、ミッターマイヤーの台詞もまた、続いた。
「卿が遂にひとりの女に身を委ねる気になったのならば、それは喜ばしい事なのかもしれないからな」
 おい待て。
 すぐさまロイエンタールの口からそんな言葉が突いて出ようとした。
 それを押し留めた彼は、まず自分が酔っ払ってミッターマイヤーの言葉を聞き違えたかと疑い、次には相手が酔っ払っているのかと疑った。自分の中に酒精が居座っている事は判っていたが、それに意識を乗っ取られつつあるとは思えない。
「ミッターマイヤー…酔ったのか?」
「…多分な」
 問われたミッターマイヤーは振り向かない。台詞ではそう答えたが、その声は醒めていて酒の気配は全く感じさせなかった。ロイエンタールは首を傾げる。親友の言わんとする事が全く読めない。
「俺はそんな事は望んではおらぬ。――卿と奥方が上手く行く事は望んでいるが、これは望まなくとも叶う事だしな」
「そうか」
 ミッターマイヤーの返答は簡潔を極めている。ロイエンタール自身も、後半の自分の冗談はあまり面白くない事は判っていた。が、前半部分についてはもう少し何か言って欲しくはある。
 ともかく、ロイエンタールは自分が伝えたい事は伝えたつもりだった。更にはこの場でこれ以上会話を重ねても進展はないような気がする。だから彼はそのまま歩みを再開した。再び居間に戻る旨を口にし、台所の外に出て行く。その途中にも軽く首を捻っていた。

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 ロイエンタールが出て行った後に、ミッターマイヤーはようやく振り向いた。グレーの瞳に彼の親友は捉えられない。肩口の向こうに見える無人の廊下を見て、彼は溜息を再度ついた。
 ――本当に、そうなのか?
 酒の席で茶化された時にその疑問は浮かんでいた。そしてこの場で親友自身の口から「歪んでいる」と言われた後から、ミッターマイヤーはずっと考えていた。
 本当に、あの女の事などどうでもいいのか?ならば何故他の今までの女のように、捨てないのだ?
 確かに現在は愛は介在していないのかもしれない。が、それでも何かに捉われているからこそ、ここまで関わりを持ち続けているのではないか――?
 その捉われを、時には「愛」と呼ぶ事もあるのではないか?
 それならば、応援してやってもいい。あの女と結婚したいなら、降りかかってくるであろう中傷などから全力で弁護してやろう。
 彼は、そう思ったのだった。
 しかし、どうやら現状では全力で否定されてしまったようだった。それは親友が本気でそう思っているのか、それとも自分の気持ちに気付いていないというものなのか、ミッターマイヤーには判断がつかない。
 それでも、いつかは彼の推測が事実になる日も来るのかもしれない。本気で「あの女」が破滅を見届けると称してロイエンタール亭に居座り続け、ロイエンタールがそれを許し続けるならば、どちらからともなく愛情が育っていくのかもしれない。
 何ヵ月後、或いは何年後かは判らないが、もしその日が来るならば、ミッターマイヤーはそれを許そうと思った。この件においても、親友の一番の理解者になろうと思った。
 ミッターマイヤーはそこまで考えて、苦笑する。
 ――まあ、仮定の話だ。杞憂になる可能性が高い話だ。
 彼は濡れた手を数回流しに向かって振り、水滴を落とした。そして傍にあるタオルで冷たい手を拭う。
 全く…この件と言い俺の子供の件と言い、今日は仮定の話ばかりだな――彼はそう思いつつ、皿に一瞥を加えた。特に変わりがない状況を確認し、彼もまた台所を後にする事にした。

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