しかしそれは長くは続かなかった。それは、ミッターマイヤーの耳に、幾分うろたえたような声が聞こえてきたからであった。
「――………おい…気を悪くしたのか?」
 ミッターマイヤーにとって親友の声は聞き慣れていて、張りのある美しいバリトンであるはずだった。しかし今のこの台詞では、それが僅かにひび割れているような気がした。微かにだが、何かに怯んでいる――そんな印象を持ち、ミッターマイヤーはそれによって自分が険悪な感情を放出するに任せていた事に気付いた。
 グレーの瞳で声のした方を見やると、そこにあったのはロイエンタールの顔だった。特に変わった表情ではないが、長年の付き合いであるミッターマイヤーには微妙な違いを見て取る事が出来る。ごく僅かだが、親友は何かを心配しているような印象を受けた。その「何か」とは、今の台詞が示してるのだろうとも。
 それを理解し、ミッターマイヤーの表情が和らいだ。口元が緩みそうになる。
 ――何をそんなに狼狽するのだ。全く、俺以外の人間だったら、今でも本気で怒っているだろうな。
 彼は親友の僅かな表情の変化と、判り易い台詞の内容に、内心苦笑していた。が、それを全て表に出さないように心掛けた。これで偽悪的な言動を少しは反省すればいい――そう思ったからであるが、直前に表情を和らげてしまったのだから、彼の試みは完全ではなかった。
 しかしミッターマイヤーの試みが完全ではなくとも、それを受け取る側のロイエンタールは動揺してしまっていた。そのために彼は、ミッターマイヤーの表情の修正に気付かなかった。
 彼はミッターマイヤーが真面目腐った表情を浮かべて、手に持ったグラスを傾けているのを見ていた。しばしミッターマイヤーを伺っていた彼だが、やがて頬杖をついた。前髪が視界に垂れ下がるが、彼はそれを払おうともしない。深い溜息をつく。
 瞼を閉じ、すぐに開いた。微かに不安定に揺れる瞳を見せつつ、ロイエンタールは呟くように言い始める。
「――…まあ…あの女が俺に愛想を尽かして、他の男の家に転がり込んでくれたらいいだけだ。オペラハウスなのだから、その手の男を捕まえるにはいい場所だろうよ」
 普段のロイエンタールからは考えられないほどに、言い訳がましい口調だった。それだけ言い、彼は目の前のグラスを傾けた。僅かに注がれたビールをまるでワインのように揺らしてみせる。量が足りないために、その水面に彼の顔は映らない。
「…そうだな」
 ミッターマイヤーは横目で親友の様子を見やり、自らの口からグラスを離した。――あまり苛めるのも可哀相か。彼の心にそんな思いがよぎる。
 彼はロイエンタールの方を向いた。相好を崩す。まなじりを下げ、人好きのする笑顔を浮かべてみせる。普段親友に見せる顔であり、この夕方には子供達にも見せてきた顔であった。
「――もう止めよう。あの女の件になると、どうにも話が妙な方向に行く」
 そう言ってミッターマイヤーは、少量の液体が残された自らのグラスを掲げた。ロイエンタールが揺らしているグラスに軽く合わせる。ガラスがかち合う、軽く澄んだ音が室内に響いた。
 ロイエンタールは意外そうな表情を浮かべる。打ち合わされた衝撃で液体が一瞬ガラス面を駆け上り、彼の顔が映る。その向こう側に見える親友の笑顔を見やり、彼は許された事を知った。――素直に謝れない自分を許してくれる親友に感謝した。
 青い左目と黒い右目の双方に笑みを浮かべ、ロイエンタールは片手で前髪を掻き上げた。ミッターマイヤーと視線を合わせる。
「本当に話が妙な方向に行ってしまったな。全くどうして、おかしな事だ」
「ああ……何と言うべきか…――」
 苦笑と共に和解をもたらし、ミッターマイヤーは照れ臭さを感じる。ロイエンタールも確かに度が過ぎた偽悪を行ったが、自分もまた度が過ぎた嫌悪感を表してしまったと、今では思うからだった。彼は苦笑しながら片手で蜂蜜色の髪を掻き回す。
 ふたりして、名前も挙げる事もない「あの女」は、そんなにも負の感情を刺激してしまうのだろうか。こんな会話をするために酒を振舞っているつもりはないのに、だ――ミッターマイヤーはそう思いながら、少し思考を巡らせた。
 ――この現象に何か名前をつけるとするなら――ああ、そうか。
 ミッターマイヤーは自分の思考の帰着に、指を鳴らした。
「これこそが――イレギュラーバウンドと言う奴か」
 ――自分が蹴ってそっちに寄越したい方向にボールが行ってくれないんだぜ?地面が邪魔するんだぜ?
 彼の脳裏に浮かんだのは、夕方の光景。ケネスの嫌そうな表情と、その彼が発したこの台詞だった。
 こんな話をするつもりではなかったのに。ふたりしてそれを望んだ訳ではないのに。気付いたら会話が変な方に向かっていた――会話もまたボールのやり取りとするなら、その表現も適当だろう。ミッターマイヤーは自分の考えに納得し、頷いた。
「……何だそれは」
 当然ながら訳が判っていないロイエンタールはミッターマイヤーに疑問を呈した。勝手に相手だけが判った事になっている。
 それに対し、ミッターマイヤーはにやりと笑った。これから存分に説明してやるつもりだった。無論、本題は子供達とのフットサルの話題になる。自らが楽しいと感じた事を、ロイエンタールに伝えてやると言う気が満々だった。

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