「――ごめん、帰宅したんだけど、すぐにこっちに向かっちゃって」
丘の中腹と頂上の距離に加え、地上と上空10何メートルかの木のてっぺんの距離。そのためにどの位の声を出せば相手に届くのか、お互い把握出来ない。だから、互いに声を張り上げる。
「いえ、お気になさらないで下さい」
声を張り上げながら丘を昇るのは、結構息が切れる。自分の視界に白い息が見えてきた。頬に感じられる冷たい空気と、何処かしら暖かい息。
「何だったら、エヴァもこっちおいでよ」
「そんな木の上に昇れるのはウォルフ様だけです。根元まで行きますから」
…普段から、この木に昇るのは御自分だけなのに。子供たちですら木の中腹付近まで昇った所で、あまりの高さや手がかりのなさに断念するらしいのに、まだそんな事を言っている。
ともあれ私は着実に歩みを進めていた。ようやく丘の頂上まで到達し、大きな木が地上に張り巡らせている根の先端付近までに足をつけた。
木の根元にふと視線をやると、そこには靴が揃えて置いてある。かなり使い込まれている革靴だが、清潔に手入れされている。その中には脱ぎ捨てて丸くなっている靴下が納まっていたりもして…身だしなみに気を遣っている態度と、まるで子供のような態度を相反させつつ内包させているのが、彼らしいと感じる。
木の幹に手をついて、私は上を見上げた。
視界には込み入った枝葉。その向こう側には枝葉に紛れた黒と銀の軍服と紛れようがない蜂蜜色の明るい色の髪。その更に向こう側には、秋の終わりを感じさせる何処となく冷たい青空。
「ウォルフ様」
「ああ、判った。今から降りるからちょっと待ってて」
と、言ったと思うと、彼は木を降り始めた。
まるでこの丘を降りるかのように軽々と歩みを進める。…「歩み」と言う表現が一番しっくりくるような状態で、この人は木登りが出来るのだ。
確かにこの木は樹齢500年近いだけあって、幹にも硬い皮がでこぼこと歴史を刻んでいるし、そこを這う蔦自体も若い木の枝並に太さを持っている。おそらく足がかりや手がかりも多いのだろうけど…でも、この木をてっぺんまで昇れるのはウォルフ様以外にはいないようだから、多分普通に考えたら人間業ではないのだろう。
そんな風に安心して――と言うか、その辺の通りを歩いている人間を眺めるのと同様に「心配する事」すら思い浮かばない状態で、私は彼が木を降りる様を見ていた。本当にするすると滑らかに――あんな動物の名前は何だっけ…猿?
……とはいくら何でも失礼か。ともかく人間業とは思えない、動物的な動きだと思う。
と、不意にその動きに齟齬が生じたように見えた。
その一瞬後、蜂蜜色や黒などが私の視界からいきなり消えた。
手を滑らせたのか手がかりを見失ったのか、木登りをしない私には良く判らない。ともかくウォルフ様は、幹の中腹付近から体を落下させていた。
思わず私は身を乗り出し、口の中で軽く声を出していた。しかしそれで何かが変わる訳もなく。それでも空中で彼の体勢が変わったように見えたのは、私の気のせいだろうか?
ともかく彼は途中の枝に体を引っ掛けた。枝についているべき葉は既に半分程度になっており、残っているものも茶色く色が抜けている。枝が彼の体を受け止めた衝撃で柔らかくしなり、次いで跳ね上がる。
その勢いで枝が激しく揺らされ、半分程度残っていた茶色い葉がばさばさと音を立てて地面に降り注いだ。地表に見えている木の根や草や土を覆い隠していく。
木の葉に紛れて、枝を揺らした張本人も落下してきた。地面に叩き付けられる鈍い音が、枯葉を踏みにじるがさがさと言う音に半ばかき消される。
まだ続く。後2回程度かなあ…。
ちなみに話の区切りを考えて、収録の区切りをつけている訳ではありません。そんな事を考えるのは、真面目に「小説」コンテンツにしてからだと思います。
|