夕陽が徐々に海岸線へと吸い込まれつつある。夕焼けが紅く輝き、青い海と空とを照らし出していた。海洋公園の風景としては、日常的なものである。
 その向こう側からは海風がなびいてきて、海辺に存在する波留真理の事務所にも気持ちの良い空気を届けている。その風は室内にまで届いてきていて、その辺りに散らかっている紙媒体の本の残骸などを微かに揺らした。赤い夕陽の照り返しが壁面に残されたガラスの断片や、床に散らばる破片に透過され弾かれている。
 これらは、海とは対照的に、明らかに非日常な風景であった。
「――…これはまた、大変だな」
 言葉の割に声が淡々としていたのは、あまりの光景に感情が圧倒されているからだろうか。室内にまで届いてくる柔らかな海風に僅かに前髪を揺らされつつ、久島永一朗は車椅子の背面にある持ち手に手を掛けていた。さざめく風と漂う潮の香りは、全身義体である彼の持ち得る感覚点にも伝わってくる。その向こうの海と空に映し出された光のスペクトルの変化を彼は義眼に映し出していた。
 元々海を前面に見る事が出来る設計の事務所だが、今日は透明ながらもそれを遮っていたガラス窓が殆ど破られてしまっている。視線を室内に巡らせると、まるでハリケーンか竜巻かが突っ込んできた後のような状態になっていた。確かに比喩的な表現をするならば、それに匹敵するような存在が事務所に襲来した結果ではある。
 久島は注意深く床に視線を落としながら、車椅子を押す。床には様々な残骸が散らばっていたが、既に蒼井ソウタや波留の事務所の隣に位置するダイビングショップ「ドリームブラザーズ」を切り盛りするフジワラ兄弟によって、ある程度は片付けられていた。しかし彼らにはきちんとした清掃を行う余裕はなかった。結果的に事務所の惨状はあまり変わっていない。
「まあ…裸足にならなければ大丈夫だし、不用意に床に手を伸ばしたりしなければ怪我もしないよ。僕は余計な事はしない事にする」
 ゆっくりと車椅子を押されつつも、波留は後ろに視線をやった。久島の方を振り向きながら、微笑んで言う。不意に彼の白髪が微かに揺れる。車椅子の車輪が硬い音を立てた。何かに乗り上げて、落ちる。
 それに気付いて久島は車椅子を押すのを止めた。その時彼の靴も硬い音を立てた。そこを見やる。どうやらガラスの破片を踏み割ったらしい。
 そこに波留の朗らかな調子の声が届く。
「――ああ、ミナモさんの椅子まで壊されてしまったなあ…」
 困ったようで能天気な雰囲気もあるその声に、久島は視線を向けた。波留は正面ではなく別の方向に顔ごと向けている。
 その彼の見ている方向に追随すると、黄色系統の色をした椅子らしきものの残骸がいくつかのパーツに分断されていた。それは明らかに暴力的な手法で分割されている。久島にもその椅子は、この事務所に集う一員である少女が使用していたものであると知っていた。その卑近な事実に気付くと、今回の件が本当に紙一重で危険な事態であったと思わざるを得ない。
 久島は軽くかぶりを振った。別の事を考える事にする。視界の下にある白髪の頭を見やった。
「――…しかし、これでは君も困るだろう。早急に修理させよう」
「そうだね。業者を手配して貰えるとありがたいな」
 波留は久島を見上げる。微笑んで言った。波留としては、この事務所を彼に与えたのは久島である。海浜公園に元々存在していたテナントを、依頼された業者がある程度は改装して手を加える事で、波留のために準備されただろう事は想像に難くない。
 ならばその業者に再び依頼して貰った方が、仕事に連続性が生まれて話が早そうだ。そしてその業者と繋ぎがあるのは久島なのだから、彼から依頼して貰った方が都合がいいだろう――波留はそう考えていた。
「勿論、経費は僕が出すから」
 だから、波留はその業者への依頼料は自分で捻出するつもりだった。相当量のガラス窓が派手に破壊されているだけあって使用される資材代だけでも安くはない金額になるだろうが、今の彼には充分な資産がある。業者への依頼料を支払ったとしても、生活に影響は出ないだろうと踏んでいた。
「――何を言っている」
 しかし久島は波留の台詞に意外そうな声を上げた。有機体製とは言え人工体である義体の表情にもそれは表れている。
「これは君の仕事上のトラブルの結果だ。そしてその仕事の依頼を君に寄越したのは私だ。危険手当との名目で私が全額支払わせて貰おう」
「…そうか」
 当然のように言い切る久島に、波留は少し口を開く。しかし、それから首肯しただけでそれ以上何も言わなかった。自分の考えを久島に伝えて反駁しようとはしない。これまでの経験上、こうなった久島には何を言っても無駄だと考えたからである。
 波留は軽く溜息をつく。それは苦笑気味なものとなっていた。

[next][back]

[RD top] [SITE top]