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その翌日の朝には、オフィスの久島の元に件の担当者から連絡があった。彼が抱えている実験の今後について、久島に問いかけてくる。 この担当者は、久島と小湊沙織が共同開発していた実験に関わっていた。彼自身、ネオブレイン入社時から付き合ってきたと言っても過言ではない。だから双方の信頼も篤く、この立場に至っている。 しかし先日、その当事者のひとりが現世から旅立った。 入院時からもう永くはないと言われていたために、周辺には覚悟はあった。彼女自身もそうであったらしく、ネオブレイン自体の業務は彼女の養子を次期会長へと据え、引き継ぎも完了していた。その点において、小湊沙織は聡明なままだった。 養子自身もそれ以前からネオブレインの要職に就いてその実力を充分に磨いており、前会長に見劣りしない評価を既に社内外から得ていた。そのため、ネオブレインの将来には曇りは見えなかった。 その一方で、この共同プロジェクトにおいては、何ら申し送りがなされていなかった。まるで、こちらについては、最期まで諦めていなかったように。 だからこの担当者は先行き見えない状況に不安を覚え、もうひとりのリーダーにそれを求めたのだった。 そしてその電理研統括部長は、淡々とした口調でその結論を切り出していた。いつも通りの応対であり、彼としては特別な事を言っているつもりはないようだった。 ――もう、止めにしませんか? しかしその台詞に、担当者は即答出来ない。彼は中堅企業の中間管理職なのだから無能であるはずがない。しかし、そんな彼にも予知出来ない事態と言う奴は存在する。それが、今のこの事態だった。 対する発言者はその相手の戸惑いを関知しない。自分の意見をそのまま電通に乗せていった。 ――私は託体ベッドの専門家ではありませんので、このプロジェクトの主導は出来かねます。それが不可能な以上、リーダーが私独りとなった今、その身を引くのが正当であると考えます。 久島は常識的な思考を開示してみせた。そして更に、相手に提案を寄越しておく。これは、自分の意志の押しつけではない――その意を示しておく。それもまた、社交辞令と世渡りの一種である。 ――無論、あなたや現会長にこのプロジェクトを引き継ぐ御意志がおありなら、私がそれに付き合う事にやぶさかではありません。その点、御社の現状は如何でしょうか? 示されたその問いに、担当者は即答出来ない。何せ、まともな引き継ぎをなされていないのである。それを今問うのは酷であると、久島も知っていた。 ――…久島部長は、どうお考えですか? ――何が、でしょう? 沈黙の末に担当者から不意に話を振られ、久島は問い返す。これは電理研統括部長にとって少々意外な展開だった。 ――あの検体…目覚める見込みがあるとお思いですか?久島部長はメタルの専門家として、どうお考えですか? その問い掛けに、久島は顎に手を当てた。口を横に結ぶ。眉を寄せ、目を細めた。 この相手は「託体ベッドの専門家」である。それは久島が言い出した評価だった。ならば、その久島に向けて「メタルの専門家」としての評価が向けられても仕方のない話だろう。別の観点からの意見を是非訊きたい――その要望を受ける羽目になったのも、彼の自業自得かもしれなかった。 やがて、久島の口許から溜息が漏れる。その唇を湿らせた後に、彼は電通で語り出した。 ――…この実験には30年を費やしたと言うのに、全く成果が見出せませんね。これも私の力不足なのでしょう。 ――そんな。決して部長のせいでは。 途端、慌てた声が電通に乗ってくる。リアルの音声ではないのに、感情をそのままに伝えられている印象すら含んでいた。 ――もっとも、彼の覚醒を目的として、その意識を探る試みが、託体ベッドの開発や人間の意識とメタルの関係の解明に寄与した事実は否定出来ません。文字通り、彼が身を挺してくれた訳ですから。メタル黎明期にはそれを許してくれる人間は居なかったのだから。 対する久島の声は冷静そのものである。それは、生きた人間を人体実験紛いの行為に晒してきた――その告白とも相まって、訊く相手の背筋を寒くした。 ――しかし、今や時代は変わった。見込みがない彼に何時までも執着するべきではない。我々が研究すべき素材は、現在のメタルにはいくらでも存在します。利用者がそれだけ増えたのですから。 電通に乗る久島の声は、何処までも冷たい。その声色で実験の終焉を宣告する。それは、実験体への「用済み」の宣告でもあった。相手の人格権など一切認めていないような口調である。彼が提示したのは冷徹な科学者としての視点だった。 ――久島部長がそう仰るのならば…。 それを訊いた相手の電通の声からは、安堵の感情が見え隠れしている。実験終了となれば、あの検体の処遇はどうなるのか――彼が抱いていた後ろめたい事は、全て久島が今、述べてしまった。故に、肩代わりされた彼は楽になったのだろう。 彼にとって久島とは直接の上司ではないのだから、その意向に必ずしも従う義理はない。しかし「人工島の神」との賞賛を受けて久しい相手には、どうしても萎縮してしまうのが人工島住民の常だろう。なまじ、彼に実際に関わってその「神」たる所以に触れた経験がある人間は、特にそう言った心境に陥りがちだった。 ともかく、久島は淡々と語りかける。彼自身は何ら含む所がない、単なる申し送りを行っているつもりに過ぎない――そう言わんばかりの態度を続けていた。 ――御社がそれで宜しいのならば、この案件に関しては打ち切りが順当であると私も考えております。残念ながら最終的な目的は果たせませんでしたが、その過程で得られた副産物は大きい。これは、最早歴史的役目を終えたに過ぎないのです。我々はそれを誇ってもいい位だ――無論、検体を果たしてくれた彼もね。 久島はこの一件についての総括を提示してみせた。これが常識的な落とし所だろう――この一件が内包していた真実を知らない一般人には、この説明が順当だろうと、彼は思った。 実際に、この相手にはこの方針で最終報告書を書き上げて貰う事になるだろう。 それでこの研究における全ては終了し、この巻き込まれた格好の中間管理職氏も晴れてこの一件から解放される。彼はある一定の成果を成し遂げた旨を経歴に書き加え、胸を張って別の研究へと邁進すればいい。それがネオブレインの、ひいては人工島全体のためになるだろう――。 ――…決して、前会長の信念を蔑ろにする訳ではないのですが…。 ――いえ、それは構いません。 若干繕うように、ふと付け加えた格好の久島の電通に対し、相手はそう即答した。その反応に、思わず久島はリアルに口篭もってしまう。 しかし、相手方もあまりに不躾だったと考えたのだろう。すぐに取り成すような思考が久島に届く。 ――…これは私個人の考えなので、オフレコでお願いしたいのですが…。 ――ええ。あなたの複雑な立場は、私としても理解しているつもりです。 恐縮している相手に、久島は助け船を出す。何せこの彼はネオブレインの中間管理職でありながら、会長直属の案件に携わり、しかもその案件には人工島の神も参加していたのだから。そんな大変な経験の中では、色々な意味で誰にも語れない事も多かっただろう――久島はそう匂わせたのだ。 果たして、その相手は久島の配慮に乗ってくる。躊躇いがちではあるが確実な思考が、久島に語られて行った。 ――…私個人としては、会長が何故ここまであの検体に執着したのか、遂に理解出来なかったのです。部長が仰るように、現在のメタルには同様の症例も散見しておりますし、何より彼とは異なる症例にも目を向けて研究しなければ研究開発の意味がないと常々愚考しておりました…。 そこで、相手からの思考が途切れた。語りが終了していた。 久島は僅かに顔を俯かせた。分けた前髪が目元に落ち込み、視界を遮る。口許からは、静かに溜息が漏れて行った。 確かに、この人物は無能ではない。久島はその認識を新たにしていた。 彼は、この研究のある種の無意味さを見抜いていた。そしてそれを理解して尚、会社人として上の人間の機嫌を損なわないように振る舞い、その研究から一定の成果を確保して行った――この2点を新人時代から一貫して30年も両立させたのだから、大した人材だと思う。 しかし、今一歩踏み込めていない。だから、真実に至る事が出来ていない。 …一般人にそこまでを求めるのは酷な話だった。それ以上を知りたいのならば、自らの上司のプライベートに踏み込む必要がある。そしてそれは、一般的にはプライバシーの侵害としてやってはならない事なのだ。倫理的な意味でも、そして仮に発覚した際の不興を考慮しても、賢明な人間ならば思考にブレーキを掛けてしまうものだろう――。 ――…あなたはそのお考えを、前会長に進言なさらなかったのですか?御社はそこまでのワンマン体制ではなかったと把握していましたが。 それでも久島はやんわりと問いかけていた。彼は、あくまでも常識的な立ち位置を崩さない。隠された真実には一切触れず、一般的な意味での疑問を提示するに留まる。 確かに、ネオブレインの前身は「小湊精機」と言うベンチャー企業であり、その社名が表すように小湊沙織が文字通り細腕一本で立ち上げた会社である。 彼女は病床の人となる直前までは現役であり、会長職として君臨していた。かと言って、苦言を呈する社員を意味なく処分する社風ではなかったろう――久島はそう言外に含ませていた。 これは、この告白を訊いた誰もに浮かんでくる疑問だろう。だから、相手側も素直に答えている。最早自らの心境を隠し立てはしていなかった。 ――…この件のみは、どうにも前会長に進言出来る雰囲気ではなかったと言うか…――いえ、これは我々の社内の問題です。久島部長のお心を煩わせて申し訳ありませんでした。 しかし彼は、最後にはきっぱりと告げてきた。今までの逡巡を垣間見せない口調に至る。 おそらくは自らを立ち直らせたのだろう。既に俎上の人物がこの世に居ない以上、不毛な話題ではあるのだから。 動揺を抱えていたにせよ、すぐに割り切る辺り、やはり彼は有能なのだろう。久島はそう思う。 彼女が選んだ人間は全てそうだ。本当に彼女は、人間を見る目が確かだった――。 |