「マスター」
 アンドロイドに短く呼ばれ、波留は我に帰った。苦笑を止める。
「何だい?」
「…大丈夫ですか?」
 躊躇いがちに発せられた様子のホロンのその台詞に、波留は思わず彼女を見やった。そしてまじまじと見つめてしまう。そこに浮かぶアンドロイドの表情は、自分を心配してくれているものだと彼には理解出来たのだ。
 これもまたAIの賜物なのだろうかと彼は思う。しかし、どうも違うような気もした。それ程に、彼女の今の表情は人間味に満ちている。
「…ああ。多分、まだ、大丈夫だよ」
 短く単語を区切りつつ、彼はそう答えていた。
 その答えにまた心配を深くしたのだろう。ホロンの眉が寄る。波留の方へ歩み寄り、ゆっくりと膝を折った。波留の顔を覗き込むような体勢になる。律儀な事に未だにコップはその両手の中にあり、胸元で支えられた状態のコップの中で水面が揺らめいていた。
「お疲れならば、専門の精神科医の方に診察して頂くようにセッティング致しますが」
 ホロンの申し入れに波留は少し戸惑いを覚えた。自立支援型の介助用アンドロイドの設定にしては、今回に限っては妙に踏み込んで来る。
「そんなに大袈裟にしなければいけない状態かな。僕は」
 苦笑交じりに彼はホロンにそう告げた。命令するでも意思表示を行うでもなく、単に彼女に話し掛ける。
 そもそも本来の彼女なら、医師の判断を元にそう言うセッティングを行うべきである。今のこの勧めの根拠はおそらく波留の様子を見た結果であり、それはまるで人間の心配そのものだった。
「私には本格的な医療行為を可能とするプログラムはインストールされていませんので判りかねます。しかし…」
 ホロンの台詞が途切れる。躊躇うように波留を見ていた。波留は怪訝に思いつつも促す。
「…続けて」
 躊躇するようにホロンは俯く。彼女の眼鏡に、コップの中の水面がぼんやりと映った。そしてそのままの姿勢で、波留の方を見る事無く、言う。
「――…私はマスターの状態が、心配です」
「…そうか」
 アンドロイドが僕の事を心配してくれているのか。彼は新鮮な驚きに囚われていた。――僕は何かミスでもしただろうか。彼は思わず、先程行ったホロンへのコーディングに思いを馳せる。しかしSF映画でもあるまいに、こんな都合のいいコーディングミスが偶然起こり得る訳もない。
 確かに自立思考型アンドロイドなのだから、徐々に人格めいたものを獲得していっていても、設定上はおかしい話ではない。しかし、自分を心配するだけのデータを、この長くも短い付き合いの中で積み重ねてしまっているのか――。
 波留は笑顔を浮かべる。ホロンにその表情をきちんと見せるようにした。まるで、人間の女性を安心させるかのように、気遣っていた。
「まだ大丈夫だよ僕は。こんな夢を見ているうちは」
「…え?」
 ホロンが声を上げた。顔を上げて波留を見やる。彼女のマスターは微笑んだままだった。
「悪夢を見なくなったら、もう終わりだろうね」
 夢とは、自分の考えを整理するための生理的な現象である。そこに悪夢が表れると言う事は、内心ではこの現状を整理し切れていないと言う事だろう。つまりは、自分はまだ全てを諦めてはいない。心の奥では生きたいと願っている。波留はそう、確信していた。
 逆に、心が凪いでしまったら、もう駄目だろうと彼は理解していた。もう生きる意味がなくなる。海を眺めたまま死ぬ事を望むだけになるだろう。
 このアイランドに居る限り、そんな日も何時かは来るのだろうか。その自分を想像出来るようでいて、想像したくはないような、そんな気がした。
「君には本当に面倒を掛けるね。介助用アンドロイドである以上、その対象を不用意に死なせる訳にはいかないのだから」
「マスター」
 ホロンの顔がすぐ近くにある。――彼女はそんな理由で心配している訳ではないと、波留には判っていた。
 介助用アンドロイドの任務としては建前上はそう言う事だろう。しかし、何事もなくともいずれ死を迎えるであろう高齢のマスターを前にそこまで心配そうな顔をされるのは、意外な事だった。これがプログラムの成果であれ、或いは人格の獲得であれ、技術の進歩とは素晴らしいものだと彼は思う。
 彼女は僕をずっと守り続けるだろう。その人間離れした察知能力をもって、出来る限り僕を死から遠ざけるだろう――発作的に僕がそれを選ぼうとしたとしても。おそらく僕にとっても、それでいいのだろう。
「…すまない。眠い…薬が回ってきたようだ…――」
 波留には不意に瞼が重く感じられた。口を開くのが面倒臭い。思考に徐々にブレーキが掛けられてゆく。身体の末端から冷たい感触が伝わり、それが徐々に中央へと広がってゆく。身体に力が入らなくなり、ベッドに寄り掛かるように起こされていた上体から首が傾いた。
 服毒自殺する時も、こんな風なのだろうか。いずれ目覚めるか、或いは目覚める事がないか。只それだけの違いであるように、波留には思われた。
 再び、絶望にも似た闇が、彼を覆い隠してゆく。

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