2012年11月

 通路の角の向こうが、我々のオフィスだった。
 オフィスとは言え、それは名ばかりのものだった。そこに所属するほぼ全員が研究職のため、我々はそれぞれの実験現場に直行直帰する日が殆どだった。だから全員が集う日など、仕事始めや仕事納めすら怪しい。まあ、書類上にはこう言った拠点を構えていなければならないので、仕方ない。それ以上の無駄金を使っていないのだからいい事なのだろう。
 私は今日、珍しくそのオフィスに向かっていた。実験データをプリントアウトした束を小脇に抱えている。このデータに適合させなければならない別のデータが、確か私の机の引き出しに入っていたはずだ。それを取りに来て、ついでにこの場で照合してしまおうかと思っていた。
 どうせ、人は居ないのだから。酷く急ぎの提出ではないのだから、ここで気楽に出来るだろう。そう、踏んでいた。
 しかし、角に差し掛かった時、私は気付いた。角の向こうから、誰かの声がする。オフィス室内からにしては声が通って聴こえる。どうやら通路に居るようだった。
「――この状況での環境分子の動作はどうなっているのかしら?」
「断言するには計算による傍証が必要になるけど、現状の観測データから推測するに…――」
 …どうやら、我々の仕事の話題らしい。ならばオフィス内でやっても良かろうに。しかし人が居るとは、当てが外れた。気楽に書類検索が出来ないな…。
 そう考えながら私は角からちらりと会話の主を垣間見た。すると、向こう側に居る女性の顔を見る事が出来た。そしてその相手の顔までは見る事が出来なかったが、声には聴き覚えがある男だ。
 女性は、小湊沙織と言う名の研究員だった。私より後の入社で、年下で――確か6歳下だったか?私と専門も被っていて、たまに一緒に仕事をする。能力的には申し分ない。
 その彼女が、奥の男と真面目な会話をしている。至って彼女らしい、真面目な仕事の話を。
 私は更に奥を見た。そこに居るのは、私よりは2歳年下の男で、彼女よりは4歳年上の男だった。彼は我々同様に白衣を羽織ってはいるが、その下に着ているのは黒いシャツでしかもノーネクタイである。他の男性研究員とは明らかに違った服装だった。その髪も後ろで結んで纏め上げる程には長い。あまり――いや、全然研究職には見えない容貌で、小煩い上の年寄りには妙な目で見られがちの男。
 もっとも彼は、我々とは違ってがちがちの研究職ではない。実践的な仕事もこなすため、そちらの姿しか知らない偉いさんも多いだろう。
 しかし、馬鹿ではない。あれで私とは同期だ。つまり、学生時代に私との年齢差を埋める程度にスキップして来ている。だから我々のような完全な研究職とも同レベルの議論も可能だった。
 彼の名は、波留真理と言った。今では、私の親友だ。
 しかしこの取り合わせは、珍しい。私はこのふたりとは同じチームに居るようなものだが、一見してクールで仕事に生きる彼女は、波留のような見た目軽々しい男とは仕事の話でなければ会話しないものと思っていた。もっとも、今も充分に仕事の話なのだが…現場でもない、このオフィスの近くで会話しているとは。

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