電理研とは、メタリアル・ネットワークの構築と運営管理、そしてその根幹を成すナノマシンの開発と管理とを全面的に担っている人工島の企業である。その第一の任務の他においても、様々な科学技術を管理開発しており、それ故発生したとおぼしきメタルやリアルのトラブルの調査なども主要な業務となっていた。
 彼らは人工島の建設黎明期からその技術を支えている。それから50年以上を経た現在、彼らは単なる技術者集団ではなくなっていた。コングロマリットと化したその集合体は人工島を代表する大企業であり、実質的には人工島の支配者であった。
 蒼井ソウタは、21歳の若さにして電理研に籍を置くインターンである。彼は表向きの肩書きを「統括部長付秘書」と言う奇妙なものとしているが、その実情は統括部長の指示で動く調査員だった。無論、電理研には彼のような調査員は他にも所属しているのだが、彼の場合はその若さこそが武器である。他の職員ではなかなか潜入調査に出向く事が適わない、ハナマチのような無法地帯を中心に調査を行っていた。
 電理研はその成り立ち故に、人工島の海底区画のビル群に広大な敷地を所有している。そこには職員の仕事場以外にも、リラクゼーションのための施設や業務のための育成施設なども存在した。
 ソウタは仕事の合間に度々、電理研が保有しているジムを利用している。彼も電理研職員の端くれとしてメタルの基礎知識やプログラムの技術などをそれなりに保有しているが、それ以上に身体が資本の任務である。暇を見つけては鍛錬する事に余念がなかった。
 更に付け加えるならば、彼には「生身で義体に勝つ」と言う主義がある。格闘技術において、全く義体化せずに義体化した相手をいなすと言う事は、相当の修練を必要とした。だからメタルの格闘コミュニティで技術を磨き、リアルにおいても肉体を鍛える。それが彼の日課だった。
 そんなある日の午後の事だった。
 彼は抱えていた案件が一段落し、午後から時間が取れた。だからジムに出向いて身体を作り始めていた。普段から動き易い格好をしている事もあり、特に着替える事もしない。それもまた修練のひとつであると彼は考えている。そうして軽いアップを行った頃に、彼の電脳に通信が届いた。
 ――蒼井様。
 それは彼にとって聴き慣れた声である。リアルでも馴染みの相手であり、このように電通もたまに受ける事がある。しかし、この電理研内においては初めての事だった。
 彼の脳内において、電通相手のアイコンと名前がダイアログ表示される。黒髪を上げ、眼鏡をかけた女性の顔がそこにある。
 ――ホロン?俺は今電理研だが、君が俺に何か用か?
 通話するソウタの思念は訝しげなものとなっている。彼とホロンとを繋ぐものは、波留真理の事務所だった。ホロンはそもそも波留の介助を任務とする介助用アンドロイドであり、現在では秘書機能などを追加されて事務所の管理を一任されている立場にある。そしてソウタは波留の事務所に非常勤で通う立場となっていた。
 だから、ソウタが波留の事務所を離れている現時点において、彼女から連絡があるのは珍しい事なのである。確かにホロンは元々は電理研所属の公務用アンドロイドのうちの1体なのだから、そう言う日もあるのかもしれない。或いは、事務所に何らかの依頼が入って、身体上の理由によりリアルを自由に動けない波留の代理として、自分の力を借りたいのかもしれない――ソウタはそう考えた。
 ――蒼井様は電理研で今、何をなさっていらっしゃいますか?
 ――俺なら今ジムに居る。時間ならあるが、波留さんから何か頼まれ事か?
 と、ソウタの脳内のダイアログに表示されるホロンの顔がふっと笑みを零した。
 ――それは丁度良かったです。私がジムに向かいますから、少しお付き合い頂けますか?
 ――…何?
 ソウタは思わず訊いていた。このジムに彼女が来るとは、一体どう言う事なのだろうかと思う。
 ソウタとホロンは毎朝海岸で組み手をする関係ではある。それはソウタがホロンに対して求めている事だった。彼はこのアンドロイドを丁度いい相手だと思っている。初めて出会った時に完膚なきままに倒されて以来、彼はホロンの腕を認め、それを越えたいと熱望して来ていた。色々な出来事を経て、彼が波留の事務所の非常勤として落ち着いた事も都合が良かった。
 しかし、それはあくまでも毎朝の鍛錬のみの関係だった。そもそも戦闘用でもないアンドロイドが、格闘技術を毎日切磋琢磨する必要はないのである。確かにリアルやメタルの修練においてデータを集める事は、アンドロイドであっても強さに繋がる。しかし戦闘用でない以上、そこまでの底上げは必要ない。ある程度の格闘技術をAIにインストールすればいいだけの話だった。
 それなのに、自らの技術の向上に拘るホロンの態度を、ソウタはまるで趣味を持っているかのように思う。彼女はそれを理解していない様子だったが、彼からすればまるで人間が抱くそれのようだった。しかしその向上心は彼にとっても都合が良く、結果的に彼らは強制するでもなく毎朝組み手を行っている。
 ――実は、義体のテストを依頼されたのです。
 ――義体?
 ――はい。私のAIに蓄積された格闘技術のデータを生かした上で、動作確認をしたいと。しかし私は設定上、見ず知らずの方とはなかなか格闘訓練を行う訳にはいかないのです。
 アンドロイドの基本設計思想は「人間に忠実たれ」である。そのために戦闘用以外のアンドロイドは、人間への攻撃行為を著しく限定されているのが常である。
 ホロンの場合は元々波留の護衛をも兼ねる意味合いもあったために、その限定をぎりぎりのラインにまで引き上げられていた。しかし、それでも「守るべき人々に対して攻撃を加えられた場合」と言う絶対的な条件付けが彼女のAIの根幹にある。そうではない赤の他人と組み手をする事は、彼女の条件付けからは困難を極めるだろう事は想像に難くない。
 ――だから、俺か?
 ――…無理でしょうか?
 ホロンの言い分を理解し、ソウタは考えた。確かに彼もホロン以外のアンドロイドとは手合わせした事がない。そもそもアンドロイドとは高価なものであり、そんなものを荒事に投入してくる人間はそうはいない。しかし何でもありなのが、彼が足を踏み入れるハナマチと言う場所である。場数を踏んでおくに越した事はない。
 メタルの格闘コミュニティでは様々なアバター相手に経験値を積んでいるが、彼が戦うのはあくまでもリアルである。メタルとリアルの境界線が曖昧なこの世の中だが、それでも肉体を使って戦う以上、リアルの修練に僅かにでも重きを置きたい心境だった。

[next][back]

[RD top] [SITE top]