波留真理は永い眠りから目覚めた時にはアイランドの介護施設に在住の身であり、その後も介護施設付近から出た事はなかった。
 肉体的には80歳を超えていた事もあったのか、歩行が不可能なまでに精神的に弱っていたために車椅子生活を送っていた。介護施設とその付近の道路は整備されていたものの、天然島のために、その大半には自然が色濃く残されている。後には介助用アンドロイドが着けられていたとは言え、彼の行動範囲は自ずと制限されていた。
 現在の彼は、電理研の委託電脳ダイバーとして、人工島に事務所兼住居を構えている。こちらの島は最初から人間が居住する事を念頭に入れて設計建築されているために、それなりに動き易い場所だった。
 とは言え、メタルが普及している現在の人工島では、人間があちこちに出向く必要はない。必要なものがあればメタル経由で注文すれば遅からず宅配されるし、メタルを利用して自宅から仕事している人間も少なくない。
 朝日が出る頃から波留が海沿いの道を車椅子で移動しているのは、単なる趣味である。早い時間なので、滅多に遭遇しない通行人にすれば「老人の朝は早い」と言う奴に見えるだろう。しかし海に生きた彼は若い頃からこの時間帯が好きだった。海の青と空の青の合間から表れる朝日が徐々にその上下の青を照らしてゆく様は、どの海を染め上げるにせよ彼にとっては美しく飽きない代物だったのだ。
 この街は水路による公共交通機関も発達しており、街並みは整然としていた。海風に晒される海沿いの道もそれ程痛んでいない。元々の素材が痛み辛いように開発されており、整備用ロボットが定期的に修繕しているおかげでもある。
 4月の朝の空気はまだひんやりとしている。穏やかな風が吹き続ける海沿いでは更に体感温度が下がる。さざなみの音を耳にしつつ、波留は朝日に照らされて海沿いの道を進んでいた。
 そんな時である。突然、波留の車椅子が停まった。軽く椅子が揺れるが、それ程激しい衝撃ではない。
 自動制御の車椅子には安全装置が装備されている。人間や障害物などが一定以内の距離に存在したならそれを回避しようとするし、それが無理ならば一時停止するようになっている。今回はそれが作動したらしい。
 これはたまに発生する事態なので、波留も特に驚く事はなかった。――たまには前を見ておかなければ。海ばかり見ていてしまったか。彼はそう反省し、視線を正面に向けた。
 しかし、目の前には何もなかった。海沿いの道の中央である。それ程広い道ではないが、他に通行人がいない現在の時刻ならば車椅子でも何事もなく通れる道路であるはずだった。
 ――センサーの誤作動だろうか?彼はそう考えたが、ふと視線を下に向けてみた。
 彼の足元には、猫が丸くなっていた。
 水平線の上に昇りつつある朝の光を丁度全身に浴びる事が出来るポイントに寝転がっており、全くもって動く気配がない。人間や柵のような大きさではなく、道に転がる石のような小ささでもない。そんな中途半端な大きさの物体が道路のど真ん中に居座っている。
 波留はぽかんとしてその猫を見下ろしていた。――ここまで接近されては、普通、逃げないか?灰色系のぶちを持つ白猫は、未だ波留の存在を完全に無視している。朝日を背後にした波留が猫の体に影を落としても、一向に気にする様子がない。
 困ってしまった波留は、手動で車椅子を切り返し、猫を追い越そうとするが上手く行かない。自動制御の精度は発達しており、それが「一時停止」の結論を出した以上、離合はほぼ無理だった。となると、その物体を排除するしかない。
 溜息をつき、波留は上体を曲げた。足元に寝転がる猫を取り上げようとする。が、猫はそこまでの巨体と言う訳でもなく、波留の両手は猫まで届かなかった。彼は足掻き、腰や両脚に力を込めてずらしたりして頑張ってみるが、その辺りの自由が利かない身である。下手をするとそのままつんのめって車椅子から落ちる恐れすらあった。
 しばしの間、倒れない程度に前傾姿勢でじたばた足掻いた挙句、結局彼は自宅のホロンに向けて通信を行う羽目になる。
 
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