そこに、波留が唐突に顔を上げる。振り返り、久島を見た。 波留は視界に親友の顔と、伸ばされようとしていたその右手を入れる。彼は少し驚いた顔をした後に、笑顔を浮かべる。親友にそれを見せた。 「――じゃあ、君の部屋に連れて行ってくれ」 笑顔の白髪の老人から発せられた言葉に、壮年の姿をした男は一瞬戸惑った。しかし、そう言えばそう言う話題もしていた事を、思い出す。そもそもそれは、自分から持ちかけた話だった。 「…ああ」 そう首肯した時には、久島も僅かな笑顔を見せていた。彼は伸ばした右手を下ろし、車椅子の背面にやる。そのまま両手で車椅子から持ち手を取り出す。 この車椅子も、この島の様々な電化製品の御多分に漏れず電脳制御のため、使用者自身が作動させる事も可能だった。しかし一昔前の車椅子のように、介助人に扱わせるだけの機能もある。 波留は正面を向く。髪を強く縛ったままのためか、少し首が凝ってきているような気がする。彼は右手を首筋に伸ばして、軽く揉む。 そのうちに彼の視界がゆっくりと動いていく。彼には静かなキャスター音と微かな振動が伝わってきた。そこには電脳制御による一定の動きではない、僅かなぶれがある。更には靴音がそれに続いてくる。彼はそれらに温かみを感じた。 ガラス窓の向こうは蒼い。更には海水越しの光が差し込んできていて、それを顔に浴びていた。波留は目を細め、微笑む。 「――また僕の私物は出てくるだろうか」 「判らないな。私は本当に整理していないのだから」 「いっそあれらの箱ごと事務所に送ってくれたら、僕の方で整理して、僕のものでないものは返却するのに。君は忙しいんだろう?」 「それはそれで面倒だ」 「はいはい」 ふたりは他愛のない会話を穏やかな口調で交わしてゆく。 久島が波留の車椅子を押してゆき、部屋の入り口まで来る。電脳制御の自動ドアはあっさり開き、ふたりはそのまま廊下に出た。彼らの背後で再び扉は閉まる。 波留は首を揉んだ右手を上げた。その手に掛かった髪を辿り、上にある結び目に指を走らせる。彼には見えないが、ゴムの一端が出っ張っていてその指に引っ掛かるのを感じた。そこに人差し指を入れ込み、引いて解こうとした。纏められた髪が横に動く。 しかし、その指はゆっくりと引き抜かれた。髪が歪んだまま、ゴムが戻って軽い音を立てる。波留の手はそのまま横に動き、肘掛けに戻った。 久島の目の前でそれは行われていたが、彼は意外そうにそれを見ていた。思わず歩む速度が若干遅くなる。そこに波留の声が届いた。 「あんまりきついから、首が痛いんだ。後で君が、君の部屋で責任取ってやり直してくれよな」 「…ああ、判った」 久島はそう答え、微笑んだ。彼の目の前では軽く歪んだ波留の後ろ髪が微かに揺れている。 ふたりはそのまま人通りがない廊下を通り過ぎてゆく。静かな靴音と転がるキャスター音が響き、すぐに消えて行った。 |