しかし、ホロンは僅かに困ったような笑顔を浮かべたまま、首を横に振った。
「いえ、そうではないそうです」
「じゃあ、何で?」
 怪訝そうな声をミナモは上げる。彼女には他に可能性が思いつかない。
 そんな彼女に対し、ホロンの眼鏡の奥の瞳は微笑を湛え続けている。柔らかそうな人工皮膚製の唇が言葉を紡ぐ。
「現在久島様と御一緒で、そのままあちらにお泊まりになるとの事で」
 この台詞に、ミナモの思考は立ち止まった。大きな瞳が軽く見開かれる。ホロンに問い返した。
「…久島さんからの電通だったの?」
「はい」
 彼女の台詞に首肯しつつ、相変わらずホロンは少し困ったような顔をして笑っていた。
「――…そっか、久島さんかあ…」
 ホロンの応対にミナモは頷きつつも、しょんぼりとした表情になる。頷いたまま顔を俯かせてゆく。呟くような小さな台詞が彼女の口からついて出る。
「久島さんなら、仕方ないよね…」
 おそらく検査は無事に終わり、それから色々と話し込むうちに帰るきっかけを逸したのだろう。遅い時間となってしまっては、久島は安全のために波留の帰宅を許さないだろう。彼女はそんな風にふたりの様子を想像した。
 彼らは50年前からの親友同士だと言うのに、立場上現在ではなかなか会う機会がないのだ。だから、たまにはそんな夜が来てもいいのだろうと、彼女は理論的には納得する。
 しかしミナモの感情的には、今まで待っていたのに結局波留に会えないとなると、やはりつまらないものがあった。でも、明日にまた学校帰りに事務所に寄れば、彼に会えるだろう。
 久島は電理研の統括部長であり多忙なのだから、明日また波留と会える訳ではない。だから、今日は機会を譲ろう。彼女はそう考えた。
 ミナモが脳内でそんな結論を導き出した頃に、彼女の上からホロンの声がする。どうやらアンドロイドも彼女の心の動きを察知したらしい。やんわりと提案を述べる。
「ですから、ミナモ様。遅くならないうちにお帰り下さい」
「――うん、判った」
 ミナモは明るい声でそう答えていた。大きな瞳でホロンを見上げる。元気そうな笑顔を浮かべていた。
 そろそろ日が暮れる時間帯であり、未成年である女子中学生を用もないのに引きとめておく訳にはいかない。明るいうちに早く帰宅させなければならない――そのような考えが、アンドロイドのAIに浮かんでいるのだろう。
 ミナモにもそれは良く判っていた。だから、彼女はホロンを困らせるような事をしたくはなかった。彼女はホロンの事も好きだったから。たとえホロンの優しさが人間への絶対遵守を謳うプログラムの産物であっても、ホロンへの好感は変わる事はない。
 急いでミナモは自分が占有している事務所の机から、自らの大きな肩下げ鞄を持ち上げる。机の上に散らばらせていた私物を鞄の中に詰め込んでゆく。彼女は帰宅の準備を始めていた。
「ホロンさん、今晩はゆっくりしてね」
 作業中、ミナモは傍に立つ女性型アンドロイドにそう笑いかけていた。マスターが不在である今晩、彼女に普段の仕事はないはずだった。
 命令を受諾していないアンドロイドは待機状態を取るのが普通のアンドロイドの設定ではあるが、彼女のような自立思考型ともなると「趣味」らしきものも持ち始めている。ミナモはそれも知っていた。
「はい」
 頷きながら、ホロンはミナモに優しい笑顔を見せていた。
 
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