チョコレートの日・後日譚
 平時勤務において、ロイエンタールの出勤は遅くもないが早くもない。無論遅刻はしない時間帯ではあるが、部下達の大半が出勤している頃に執務室に到着するのが通常だった。これは「部下より早く出勤しては部下が萎縮するだろう」と言う彼の認識から取られている行動である。そのために自邸からであろうが愛人宅からであろうが、ほぼ同じような時間に出勤していた。
 その日も彼は通常の時間に自らの元帥府に姿を見せ、執務室へ向かう。すると扉の前に副官が立っており、彼はロイエンタールの姿を認めると敬礼を行った。
 
 ロイエンタールは副官の状況に違和感を覚えた。通常ならば主不在の執務室で書類の整理をするなり、それも終わっているならば別の部屋で自分の仕事をしているなりしているだろうからだ。そのために彼は金銀妖瞳に怪訝そうな色を湛え、副官にその旨を問い質した。
 すると副官は、この執務室にミッターマイヤー元帥が待っていると言う旨を答えたのである。だから副官自身はコーヒーなどを勧めた後に席を外し、しかし訪れた元帥の待ち人を誘導するまでは扉の前で待機していたのだ。
 ミッターマイヤーの出勤はロイエンタールのそれよりも早い事が多い。それは蜂蜜色の髪をした提督が、自身のデスクワークの資質に疑問を感じた末の対策であり、或いは生真面目な彼の性格がそのまま行動に出ているだけでもあった。
 ともかくロイエンタールは長い付き合いの上に親友の出勤時間を把握している。そのためにある程度の時間を待たせてしまっている事にも気付いた。扉の前の副官に頷き、早々に執務室に足を踏み入れる。
 
「――よう、ロイエンタール。待たせて貰っていたぞ」
 執務室内の応接テーブルに着いていたもうひとりの元帥は、扉が開くのを見やってソファーから腰を上げた。軽く片手を挙げ、にこやかに挨拶をする。
「卿の朝はいつもながら早い事だ」
 ミッターマイヤーの挨拶に手を挙げて応じつつ、ロイエンタールは執務室に入る。そのまま応接スペースに踏み込み、ミッターマイヤーと対面のソファーに向かった。ミッターマイヤーに片手で座るよう指し示すと、彼の親友はそれに応じた。次いでロイエンタール自身もソファーに腰を下ろす。
 一言二言挨拶めいた言葉を交わすうちに、扉の向こうからロイエンタールの従卒が姿を見せる。裏で事前に準備をしており、今しがた元帥二人が揃ったと副官に耳打ちされたのだろう。従卒はトレイにコーヒーをふたつ用意し、彼の上官とその客人に対して差し出した。客人に対しては既に1回コーヒーが出されていたが、その空になったコーヒーを下げる。
 その客人が笑顔で礼を言い、上官が片手で人払いの仕草をしてみせる。従卒はそれに従い、深々と一礼をして退出していく。規則正しい軍靴の音が微かに響き、執務室の扉が閉まる音も微かに室内に響く。
 
 親友とふたりきりになった執務室内で、ロイエンタールは従卒が淹れたコーヒーを口にする。一口味見をするように口の中で転がし、そして親友に話しかけた。
「で、何か用か?俺はこの訪問が勤務時間に掛かっても一向に構わぬが、それでは卿の気が済まぬだろう」
 デスクワークに苦手意識があり実際にデスクワークに時間を掛けてしまう事と、勤務時間からは私用を出来る限り排除したいだろう事――この2点がミッターマイヤーには引っ掛かるだろうとロイエンタールは判っていた。だからこそ、この親友の朝からの訪問は珍しい事だった。
 ミッターマイヤーは軽くコーヒーに口をつけていた。親友からの問いに、彼は顔を上げる。
「短い時間で済む用事なので、朝から訪問させて貰った。勤務時間まで後10分程度はあるから大丈夫さ」
 言い終わると彼はコーヒーカップとトレイをテーブルに下ろす。そしてそのカップを彼の前から幾分ずらして動かした。黒色の液体はカップの半ば程まで残っている。
 ミッターマイヤーは隣に置いている書類入れを手に取った。手際よくケースを開ける。中からは書類らしきものが何枚も出てきた。
 
「先日の卿との約束を果たそうと思ってな…」
「…俺との約束?」
 書類を自分で確認しているミッターマイヤーの台詞を訊き、ロイエンタールはコーヒーカップから口を離す。香ばしい香りと湯気を顔に当てつつ、彼は記憶を辿った。
 思い当たる事を手繰り寄せるのに、彼はそれ程時間を必要とはしなかった。すぐに先日の昼間の会食での一件を思い出す。――あの時自分がエヴァンゼリンに対して考えていた贈り物をミッターマイヤーが修正し、それを発展させたものを準備しておくと約束していた。
 
 ミッターマイヤーは自分の前に書類を数枚並べた。ロイエンタールはそれを見ようと、コーヒーカップとトレイを脇に置いてテーブルの上を覗き込んだ。
 並べられた書類に掲載されていたのは、様々な植物の苗の2次元写真らしかった。苗本体と、それが育った後のサンプル写真が併せて掲載されている。
 
「…これは…?」
「卿の贈り物を知って、考えたんだ。卿は俺達の家の庭を豊かにしたかったんだろう?」
 相好を崩しているミッターマイヤーの顔をロイエンタールは見やる。本気で楽しそうな親友の表情に幾分押されつつも、ロイエンタールは顎に手を当てる。書類に視線を落とし、片方の手の指でその上を軽くなぞり、叩いた。
「まあ、卿と奥方を想像した場合、庭いじりの光景が浮かんだのでな…」
 口から出てきた台詞は困惑気味なものだったが、彼は脳裏にその光景を再生する。彼が親友夫婦の仲睦まじい光景を想像してみて、脳内に沸いてきた妄想がまずそれだったのだ。
 その妄想の遠因は、親友が造園業の出身であり、実際に庭が素人管理としては見事に保たれていたと言う先入観があったからかもしれない。彼自身それに思い至らない訳ではなかったが、実際にその想像が絵になっていたので、その想像自体を否定する気にはならなかった。
 
 ミッターマイヤーは親友の心中を放置している。笑顔を浮かべたまま、自らの話を続けてきた。
「だから、今の季節に合う花とかの苗を揃えるかと思ってさ」
「…成程な…」
 ロイエンタールは顎に当てた手を外した。書類を眺めやり、彩りが美しい写真を指でなぞる。
 彼は、親友の判断を内心高く評価していた。――これは俺の提案がそもそも庭の世話から出てきた事を考慮している。奴は俺の贈り物を丁重に断りつつ、奴自身が準備した連名での贈り物には俺の考えを生かしている。政治的配慮と言う奴が見事に出来ている。本当に素晴らしい――そう考えた。
 ミッターマイヤーが本気で政治的配慮のみでこのような準備を周到に行えるのかと問われたならば、ロイエンタールにはそうは思えなかった。しかし何も考える事無く――或いは下心からではなく本当に相手の考えを生かした末にそれを発展させる事は出来る人間であるとは判っていた。そこが自分との違いであり、自分よりも優れている点でもあるとも彼は思う。
 本当に好ましい男だ――と思い、ロイエンタールは口元を綻ばせる。再びコーヒーカップに指を絡ませた。
 
「俺の実家は造園業だからさ、いい苗を見つけるための伝手はあるんだ。それに代金は卿と折半ともなれば、結構な数が揃えられるし土や肥料にも気を遣う事が出来る」
 ミッターマイヤーは身を乗り出して笑顔で説明する。彼はロイエンタールの口元に笑みを見出していた。それを見て、彼は自分の考えを認めて貰ったのだと嬉しく思っていた。彼は、妻が喜ぶ顔を見たいのは当然だが、親友にも喜んで貰いたかった。
 ロイエンタールは親友の言葉を心地よく耳にしつつ、コーヒーを口にしていた。放置していたのは数分程度だったために、液体は熱を失っていない。淹れたのは従卒であり結局は単なる少年の手に拠るものなのであるが、豆の質は良く従卒も慣れてきているらしく、彼にとって楽しんで飲めるものにはなってきていた。
 
「俺の次の休みに納入して貰って、エヴァと一緒に植えようと思っている。1日使えば出来る量だからな」
「…好きにするがいいさ」
 ロイエンタールはそれだけ言った。瞼を半ば伏せ、コーヒーを楽しむ。
 親友が笑顔でいる事が彼はたまらなく好きだった。自分が言い出した事で親友が喜んでくれるなら、それ以降の事はどうでも良かった。金の使い道もその金額も好きにしてくれたら良いと思う。どんな金額であろうとも、請求書を回してくれたら払うつもりだった。
 嬉しいのだが、それを素直に台詞に出す事は彼には難しかった。そのために一見突き放したような事を口にする。しかしそこからミッターマイヤーは親友の嬉しさを見事に読み取る。それが彼らの常だった。
 
 そのために、ミッターマイヤーは笑顔で続けていた。
「――だからさ、その日には卿にも手伝いに来て欲しいんだ」

 この親友の申し出に、ロイエンタールは数度瞼を瞬かせた。
 その直後、ロイエンタールの口元に浮かんだ笑みが、軽く引き攣った。

「…ミッターマイヤー………卿は今、何と言ったか…?」
 それでもロイエンタールは何とか笑みを維持していた。微妙にわざとらしい笑顔にはなっていたが、彼はコーヒーカップとトレイをテーブルに置いた。ミッターマイヤーを見ないようにして、親友の視線から軽く逃れる。
 ミッターマイヤーは内心の嬉しさにより、親友の変化には気付いていなかった。親友が顔を伏せ気味にしたのも、例によって照れなどを誤魔化したいだけなのだろうと彼は解釈していた。だから彼はにこやかに同じ内容を繰り返した。
「いい機会だ。卿も庭仕事をやってみろ」

「――おいミッターマイヤー、ちょっと待て」
 先程よりも直接的な台詞に、ロイエンタールは危機感を抱いた。コーヒーカップに絡んだ指を素早く、半ば荒っぽく引く。そのためにカップが揺れてトレイと接触し、高く短い音を立てた。
「何だよロイエンタール」
 ミッターマイヤーは親友の台詞とそのカップの音で、現実に引き戻された。何やら慌てた風の親友を見やり、怪訝そうな声を上げた。
 
「卿はこの俺に、庭仕事をしろと?」
 俯いたままのロイエンタールはそんな事を言う。
 その態度にミッターマイヤーは戸惑った。――苗などを彼と親友の連名でエヴァンゼリンに贈るのだから、これをいい機会にして一緒に庭仕事をするのもいいだろうと彼は思っていたのだ。それもまた自分達にとって楽しいのではないかと彼は信じていた。
「そうだが、何か問題でも?」
「大有りだ!」
 遂にロイエンタールは声を荒げた。きっと顔を上げる。そのまなじりは厳しいものとなっていた。そこに現れているのは怒りと言うよりは、焦りであるようにミッターマイヤーには思われた。
 
「何故だ?何が卿の気に喰わんのだ。無論初めてだから卿も手筈が判らんだろうが、俺が教えてやるつもりだぞ」
 ミッターマイヤーは腕を組み、首を傾げて親友に問い掛ける。親友の激情が怒りではなく戸惑いや焦りから来るものであると彼は認識したため、親友の内心を知ればそれを解きほぐす事が出来ると考えたのだ。
 ロイエンタールはまるでミッターマイヤーを敵視するかのように睨み付けた。片手を胸に当てる。
 
「この俺が、炎天下の中、庭仕事をするのか?」
「日射病にならないように考えながらやるし、日焼けが厭なら日焼け止めを塗っておけ」
 …しかし、軍人が今更日焼けなどを気にする訳もなかろうに。ミッターマイヤーはそう思う。宇宙空間での艦隊戦が主となった今の立場はともかく、下級士官時代には人間が居住可能な地上世界においての戦闘や演習などで、所謂太陽の光を浴び続けて日焼けもしただろうにと思う。
 確かにロイエンタールはミッターマイヤーよりも肌の色素が薄いため、日焼けは避けられるなら避けた方がいいのだろう。しかしミッターマイヤーとしては、日焼けから逃げるとは女性ではあるまいにと思えてならない。
 
 ミッターマイヤーの口調は半ば呆れたものとなっていた。それは彼は、親友の悩み所がとても馬鹿馬鹿しいと思っていたからである。そして彼はその馬鹿馬鹿しさに流され、その呆れを隠蔽する事を忘れていた。
 ロイエンタールがこのミッターマイヤーの口調に込められた感情を完全に勘付いたかは、彼自身が焦燥感に溢れていて余裕がなかったために、謎である。しかしロイエンタールはミッターマイヤーが自分の苦悩を全く理解してはいない事は、悟る事が出来た。彼の胸に当てた手が音を立てて拳を作る。空いた片手がテーブルに置かれ、乾いた音を立てた。
 
「俺に――麦藁帽でも被って健康的な庭仕事の格好をして、土にまみれて、スコップや移植ごてを使えと!?」
「…庭仕事の経験が無い割に、妙に想像力が逞しくて、しかもその想像が見事に当たっている奴だな」
 口元を歪めて言うロイエンタールを見やり、ミッターマイヤーは眉を寄せた。蜂蜜色の髪を持つ元帥は、困ったような呆れたような表情をする。おそらくは書物での知識なのだろうが、妙に具体的な装備の名前を挙げる事が出来る親友をどう捉えるべきなのか、迷った。
 
「――俺の矜持は、そんな事には耐え切れん………!」
 ミッターマイヤーの台詞自体にはロイエンタールは反応しない。彼は眉を寄せ瞼をきつく伏せ、押し殺すようにそう言った。

 ――…こんな事で持ち出される卿の矜持って、一体何だよ。
 ミッターマイヤーは本気でほとほと呆れ返っていた。
 俯き、肩を震わせ、本気で屈辱に耐えているらしい親友のダークブラウンの髪を眺めた後に、ミッターマイヤーは視線を中空に泳がせた。妙に逞しい親友の想像力を、自分の脳内で追体験してみる事にした。
 
 確かに、似合わないような気はした。
 
 が、ここまで嫌がる事か?
 ――ミッターマイヤーはそう思い、結局は親友に対する呆れの気持ちを拭い去る事が出来なかった。
 
 彼らの向こう側の壁に掛かる時計がかちりと音を立てる。針が丁度勤務開始時間を指し示していた。
 執務室の窓からは気持ちのいい朝日が差し込んできている。
 
 
 
 結果としてミッターマイヤー元帥は、自邸の庭に苗を植えると言うプレゼントを妻のエヴァンゼリンに贈る事にはなった。
 しかし、その場に親友を引きずり出す事は適わなかった。
 その顛末を彼は妻に話したのか、それは謎である。
 後にミッターマイヤーから詳細な目録を受け取り、完全に金額を折半にしたロイエンタールも、この件にはそれ以上触れなかった。訊いてしまっては地獄の蓋を開くようなものだと恐れていたのだろう――とは、苦笑を浮かべつつ振込を確認したミッターマイヤーの内心である。

 はい終了。
 つーかロイエンタールが真面目で馬鹿だなあ。そこに笑って貰うのが目的の前後編です。
 
 ちなみに前編で彼が用意しようとしたプレゼント「小型のパワーショベル(特注でピンクの塗装)」と言うのには、元ネタがあります。
 現実に、F1ピットレポーター兼解説者の某川井一仁氏が親に贈ろうとしたプレゼントなのです。10年以上前に(92年の事で、氏は当時32歳…て偶然にも双璧のこの頃の年代と合致してるなあ)嬉しそうにそれを同僚の今宮純氏に話し、今宮氏に呆れられたと言う逸話があるのです。雑誌記事がソースの、ガチで実話です。
 …細かく言うと贈ろうとしたメーカーはコマツだ。その頃コマツはF1チーム(ロータス)のスポンサード兼技術協力やってたからねえと、興味ない人には本当にどうでもいいトリビア的豆知識。
 ふしぎだが、ほんとうだ。流石金持ちのボンボンで専門馬鹿と来たら、やる事が違う。
 
 つまり、この話はホワイトデーネタの皮を被った、F1布教のためのSSなのです(本当かよ)。開幕戦バーレーンGPを見る限りでは今年はかなり面白そうですので、第2戦マレーシア(丁度今週末です)やそれ以降を機会がありましたら地上波だけでもちらりと見て頂けたら、20年来のF1ファンとして嬉しいです。
 
 って、マジでF1ネタで話締めやがる気かこいつ。
 えーとまあ、ロイエンタールってこういう真面目で、そこがちょっとずれててたまに馬鹿げているとしか思えない態度を取る…みたいなイメージなんです。笑って許して下さると、幸いです。
 最近コメディタッチな更新が続き、その都度ロイエンタールを玩具にしてますけど、本当は格好いいと思ってますよ!いやマジで!
06/03/16

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