不意に、背後から声がした。 「――本当に、泊まっていかないのか?」 俺はその言葉に、足が止まった。無意識の行動だった。 正に、今更である。俺は苦笑せざるを得ない。 どうやら親友殿は、俺を引き止めてくれるらしい。が、しかし、俺にそれに乗る資格があるのだろうか。 ――いや。 こんな真似をしでかしておいて、泊まっていける程、俺の心臓は強いだろうか。 泊まってしまえば、やがて朝が来る。そうすれば、奥方とも顔を合わせる事になるだろう。理由をつけて顔を合わせないまま帰るなりしても構わない。が、それは如何にもわざとらしい。朝になってそんな事をするならば、今のうちに帰っても同じ事だ。 奥方は出来た妻である。だから、自分の心情がどうであろうと「妻」の役目を果たそうとするだろう。引きこもる事無く、台所に立ち、普段通りに「客」に朝食を振舞うだろう。 しかし、「無礼な客」である俺に、そんな彼女を直視出来る自信がない。まともに振舞える自信はない。無様に表立ってうろたえる事はしないだろうが、微妙な違和感を振りまくであろう事は止められそうにない。 そんな情景を、ミッターマイヤーの奴はどう思うだろうか。やはり、不快に思うだろう。 俺は、親友に不快感をもたらしたくは無い。――そんなものを感じさせて、嫌われる要因は作りたくはない。 いや、あの台詞によって、もう既にある程度の嫌われる下地は作ってしまっているのだろう。そこをどうにかして取り繕わなければならない立場に、俺は置かれているのだろう。 しかし、俺はそれを直視出来なかった。直視したくは無かった。 だから、俺は今帰るのだ。帰って――時間を置いて、奴に判断を任せるのだ。 俺は、逃げている。自分から何かをする気が無いのだ。全て、奴に委ねるのだ。 卑怯だ。 それが判っていても、俺にはそれ以上の事をする気にならなかった。 肩を揺らし、溜息をついてみせる。俺の背中に視線を突き刺している、ミッターマイヤーに判り易い動作をして見せた。それから肩を竦め、両手を軽く挙げる。振り向かないまま、俺は奴に言った。 「――何、考えたのだが…折角の夫婦水入らずの一夜に、俺が割り込むのも気が引けてな」 「ロイエンタール」 意外に真面目な声で俺の名前が呼ばれた。――混ぜっ返したつもりだったのだが。冗談が判らぬ奴だったようだ。 俺は視線だけを親友に投げかけた。肩口の向こう側に見えるのは、見慣れたはずの親友の顔だった。しかし微妙に距離があるせいか判らないが、グレーの瞳にはいつもの強い意志は感じられない。奴自身、この状況を持て余しているようにも見えた。 俺は再び溜息をつく。今度は軽く。顔が揺れる程度で。口元に笑みが浮かぶ。 「卿も休みが少なかろう。今後、遷都が正式に決まれば、我々重鎮は他の人間から前倒ししてフェザーン入りする事になるだろう。そうなれば数ヶ月は奥方と別れる事になる。その前の、貴重な休みだ。邪魔者は消えるから、存分に堪能してくれ」 俺が口にした台詞は、辞去するに当たってもっともらしい事情を連ねていた。たった今でっち上げたにしては、上出来だろう。 実際問題として、円満な家庭を持っているくせに立場上出征続きであるミッターマイヤーにとって、この休みは重要なものであるはずだった。結婚してもまともに首都星に身を留めていた日数は本当に少ないはずだ。だから子供が出来ぬのも仕方の無い話ではある。 そんな重要な夜だと言うのに、「親友」なんぞに夫を奪われて、奥方も内心穏やかざる部分があってもおかしくない。俺はそこを突いた。状況を持て余している奴に、ある方向性を見出させてやった。 果たして奴は、片手で蜂蜜色の髪を掻き回した。考えたり迷ったりしている時にやる、いつもの癖である。――いつもの癖。微妙な状況の中、いつもの奴の行為を見る事が出来て、俺は何故だか安心した。 「じゃあ、邪魔者は消えるからな」 俺は口元に笑みを浮かべ、奴に片手を挙げてみせた。いつもの、別れ際の挨拶と同一であるように。 ミッターマイヤーは慌てた風に片手を髪から離した。ああもうとかそんな台詞を口にしていたようだった。俺は訊かなかった事にしておく。歩みを進め、玄関の扉に手を掛けた。 扉が開くと、外気が侵入してくる。秋の始めの夜の空気は冷たかった。それが僅かに俺のマントを揺らす感覚が伝わってきた。 もっと他に言うべき言葉は、いくらでもあったはずだ。 俺はそれを判っていた。しかし行動に移す事は、出来なかった。 蜂蜜色の髪を持つ親友の声と姿を、背後の扉が遮る。目の前に広がるのは、夜の闇だった。 |