ラーメンとビール - involve -
 日本の最先端技術を預る独立行政法人である電理研と所属職員の日常は多忙を極めている。彼らの10月初頭とは、9月末で終了した半期の結果を元に、それぞれの業務を更に発展させるべく努力する日々となっている。
 特に電理研とは今年組閣されたのだから、ようやく彼らの成果が決算と言う形を取った事になる。他者にも理解されるようにデータ化された自らの研究内容を客観視し、彼らはそれぞれの研究を進めてゆく日常を過ごしていた。
 波留真理と久島永一朗もその一員であり、新興組織たる電理研の中でも若手の部類に入る年齢だった。しかし彼らとて他のメンバー同様に、学生時代やその後の社会人時代の研究論文などから見出されて招集を掛けられている。それぞれが抱えた研究の前には年齢など関係なく、仕事量もそれに順じていた。
 彼らは別々の研究を抱えており、電理研から離れた現場に直行直帰する日も多い。それでも彼らは年齢が近いせいか、何時しか親交を深めていた。だから一旦現場から電理研に戻ったりした後の、それからの帰宅時間が重なった場合には連れ立って退社し、時間が許せばそのまま夕食ついでに酒を嗜みに行ったりもしていた。
 彼らの自宅は同じ市内には存在するが、そこに到達するための路線は違う。そのために心理的には然程近所とは思えないのだが、それでも時間が合えば途中までは同じバスなり地下鉄なりを使って帰宅している。彼らは、それを面倒だとは思わないだけの関係を築き上げていた。
 今日も彼らは別の現場で残業し、報告と機密文書などの返還のために電理研に一旦戻っていた。用意された自分のデスクにて簡単なレポートを執筆している際に、親友も戻ってきて同様の作業を行ってゆく。
 そして互いの作業が終了し、詰所で夜勤のガードマンに挨拶して電理研を後にした頃にはもう日が替わろうとしていた。
 既に各交通機関における終電の類は出てしまっている。こうなると歩きたくなければタクシーなどを使うしかないのが通常ではあるが、この市内では救済措置が用意されている。
 深夜1時過ぎに、幹線道路沿いを走る路線バスが存在するのである。本数は1,2本と少なく、路線も1種類のみであり幹線道路のバス停を通るのみである。しかしそれでも利用者はバス会社の見込み以上には存在しているらしく、そのような時間帯に社員を勤務させる状況だと言うのに廃線になる様子はない。
 かくして、繁華街で遊び倒した学生や退社後に飲み屋街で数軒ハシゴした社会人、そして逆にそんな時間まで働いていた企業戦士などがその深夜路線バスの常連となっている。そして波留と久島はその3番目の部類に入っていた。



「――久島さん。時間あるし、何か食べて行きましょうよ」
「…は?」
 そんな深夜の、電理研の所在地である埠頭を抜けて繁華街へ続く幹線道路へと出た頃に、波留は久島にそんな事を言い出していた。
「ここのラーメン屋、結構旨いんですよ」
 黒髪の青年が笑顔で立ち止まった背後には、こじんまりとした平屋建てのビルの門構えが存在していた。彼はその背後に対して親指を立てて指している。
 その入り口には紅い暖簾が掲げられており、ガラス扉の向こうに垣間見える店内は灯りに包まれている。その内部にも人間が何人も見え、この深夜に営業している上に客も入っている様子だった。
「…こんな深夜に食事を摂るつもりはない」
 対する久島はぶっきらぼうにそう答えていた。扉は閉じられているが隙間からラーメン店特有の香りが漏れて来ている。それが久島の鼻を突き、顔を顰めた。
 彼は波留とその背後の暖簾に続けざまに一瞥を加えた後に、ついと興味を失ったように視線を外す。そのまま道路の向こうを見やり、目的のバス停へと歩みを再開しようとしていた。
「あ、久島さん…」
 笑みが固まった状態で波留は手を伸ばす。久島を呼び止めようとする素振りだが、その年長者は一切振り向こうとはしない。視線のみを後ろに向け、口を開いた。
「君が食べたいならそれでいい。好きにしろ。バス停の列で場所を取って待っていてやるから、時間までには来い」
 関心がまるでない、そっけない台詞が彼の口から現れていた。小脇に抱えた鞄を落とさないようにスーツのスラックスに両手を突っ込み、若干肩を竦めて一歩を踏み出す。革靴の底が舗装された歩道を捉え、硬い音を立てた時だった。
「…えー、ビール中瓶1本つけますからー」
 背後からもたらされたその台詞に、久島の足は思わず止まる。反射的に、あの苦く泡立った液体が喉を通って身体に染み渡る感覚が身体に現れていた。
 それを自覚した彼は眉を寄せた。何処までも酒飲みか私は――そんな想いが脳裏をよぎる。
 それからゆっくりと背後を振り返ると、久島の視界にはにやにやと笑っている波留の顔が入ってきた。その表情を見るに、彼が取るであろう行動は年下の同僚にすっかり見透かされていたらしい。その同僚は、笑顔のままに言葉を続けてくる。
「バス来るまでちょっと時間あるし、並んでなくても乗れますって」
 波留は久島に対して右手を小刻みに振ってみせている。それは手招きと表現出来る仕草だった。そして左手はガラス扉に伸びていて、手探りで持ち手に引っ掛けてその戸を引いて半ばまで開く。
 途端に店内の喧騒が空気を揺らして外まで伝わってくる。入り口が開くと店員に判る仕組みになっているのか、それとも店員が察するように慣れているのか。ともかく来客らしき人間に目敏く気付いたらしい店員が威勢良い声掛けを行ってきた。
 波留は店内に笑顔を向け、扉を抜けた入り口付近に設置されている食券販売機に目を向ける。彼はボタンとして並ぶ品目を眺めつつ、肩提げ鞄の蓋を開けて財布を取り出した。彼は機械に1000円札1枚と小銭をいくらか投入し、人差し指でボタンをひとつひとつ確認してゆく。
 その頃には久島は、店内に入った波留を追って入り口付近までには来ていた。しかし未だに店内の敷居を跨いではおらず、食券機に向かい合う波留を遠巻きに眺めているばかりだった。
 そんな中、ボタンを眺める波留は気付いたように声を上げる。
「――あ、ミニラーメンとかあるから、久島さんはそれにすればいいですよ」
「おい、私は…」
 波留の言葉に久島は戸惑いの表情を浮かべ、何かを言い掛ける。――私はビールだけでいいからな。おそらくはその手の内容を含む、当然のように居直った台詞が久島の口から発せられるのを、波留はさり気なく遮っていた。
「ビールだけ空きっ腹に入れたら悪酔いしますよ」
 久島の言葉を制して、笑顔の波留はそう言っていた。そして同僚の返答を聞くまでもなく、今の話題に該当するボタンを押していた。
 既に波留の手でいくらかの金額が投入済みだったために、その操作は問題なく完結していた。機械内で微かな起動音がした後に、取り出し口に簡素な紙片が落下した。そしてそれは波留があちこちのボタンを押す度に続いてゆく。
「俺が水汲んでくるから、久島さんは席取って貰えます?」
 波留はその台詞を発した時には、販売機の前で屈み込んでいた。彼はその姿勢で取り出し口に手を突っ込んで、そこに発行されている食券を取っている。そして取り上げた後に、注文したい品物と買った食券が一致しているかどうか確認していた。
 そんな彼に久島は困惑気味の表情を浮かべていた。視線を上に向け、眉を寄せている。長い溜息が彼の口から伸びて漏れた。その際に、若干大袈裟に肩を揺らす。
「…ああ、判った」
 遂に彼はそう答えていた。食券まで買われてしまった以上、最早反駁する気力がなくなったらしい。彼は、ビールに釣られた挙句にラーメンまで御馳走される羽目になった自分と、その状況をもたらした親友の押しの強さに呆れていた。
「カウンター席よりテーブル席がいいんだろ?」
 観念した久島は遂に軒先を跨ぐ。食券機の前に屈み込んでいる波留の隣に立った。横目で年下の同僚を見やりつつ、そう訪ねる。
「そうですね。食事摂った後はバスの時間まで落ち着きたいですし」
 対する波留はそう答えて頷いていた。その手元では、取り上げた食券を無造作にぺらぺらと捲っている。
 久島もそれに関しては同意見だった。彼としてはこの来店は波留以上に食事が目的ではない訳で、だとすれば店員と顔を突き合わせる機会も多い上にスペースが狭いカウンター席はどうにも慌しくて仕方がない。騒がしく料理の匂いがきつい店内ではあるが、テーブル席ならば多少はマシだろうと考えた。
「判った。こんな深夜なのに混んでるから、君の望み通りに行くとは限らんがな」
「広くはない店ですから、久島さんが何処に席を取ったかはすぐに判ります。何処に行っても大丈夫です」
 無表情に言う久島に、波留は笑顔で応えていた。どうやら波留は店内事情を把握する程度には、以前からこのラーメン店を利用している立場らしい。おそらくは昼の営業時間にて昼食として、或いは今日のように帰宅前に夕食や夜食として立ち寄っているのだろう。
 それは、久島が知らなかった波留の姿だった。それを思うと、何故だか久島の口からは溜息が突いて出てくる。軽く首を振った後に、食券販売機の脇を通って店内へと入った。



 波留を残して店内に入った久島に、改めて店員が声を掛けてくる。アルバイトらしい彼らの言葉は勢いがいい。それは店からの教育が行き届いていると言うよりは、若さに任せて叫んでいる印象が強かった。
 とは言え、挨拶の次に掛けられる言葉は、空いてるお席にどうぞ――である。どうやらこの店では過剰な接客をやるつもりはないらしく、食券を買った後に勝手に自分で席に着くシステムとなっている様子だった。単なるラーメン店ならば普通のタイプの部類のサービス形態だろう。
 波留が言った通り、この店は然程広くはない。入り口から久島は店内を全て見渡す事が出来ていた。彼が視線を走査すると、設置されているカウンター席とテーブル席は8割方埋まっている。
 そこに居る殆どの客は、会社員らしいスーツ姿である。そしてその全員が男性である。流石に繁華街にはまだ距離がある埠頭近辺の深夜のラーメン店にはその付近で勤務している人間が来るらしく、また女性客はあまり来ない様子だった。
 そして店員以外のこの場の全員に酒が入っている様子であり、その量は彼らの様子を比較するに千差万別であるらしい。この店で一杯飲んだ人間から別の店で飲んだ挙句に締めにラーメンを食べに来たとおぼしき人間まで、多種多様に揃っているようだった。
 ともかく久島が雑多に並ぶスーツ姿の黒い頭を眺めると、そこに一段へこんだ場所を見出した。その位置にあるこじんまりとした椅子2個分のテーブル席がひとつ空いている。それを発見した久島は、若干の早足になる。鞄を持ち直し、その席へと向かった。
 彼が到達するまでに、そのテーブルに他の誰かが手をつける事はなかった。それでも彼は半ば急ぎ足で数歩を費やし、手にした鞄をテーブルの上にどさりと置いた。
 古ぼけた赤色の盤面を持つテーブルに置かれている箸箱や調味料入れを薙ぎ倒さないように心掛けた一撃が、そのテーブルの中央に加えられる。無作法とも咎められるような行為ではあるが、これは古今東西様々な状況下における一般的な席取りではあった。
 それを実行した事で、久島としてはひとまず自らの使命は果たした事になる。店内は広くはないし食券を買い終わっていた以上、波留もそうそう時間を掛けずに2杯の水入りコップを引っ提げてやってくるはずだった。椅子に座るのはその同僚がやって来てからの方がいいだろうと思い、久島はテーブルに縦置きにした鞄に手を掛けたまま溜息をついた。
 その時、久島は何かの気配に気付いた。思わずその方向へ視線を向ける。
 並ぶテーブル席の隣のテーブルに着いていた男が久島の方を見ていた。椅子を引き、体ごと背後に立つ久島を振り返っている。
 彼はくたびれたスーツ姿の中年男性で、その顔は赤らんでいる。垣間見えるテーブルの上にもビール瓶と黄金色の液体が半ばまで注がれているコップが置かれており、どうやらある程度は酔っ払っている状態らしい。
 その彼から注がれてくる無遠慮な視線に、久島は眉を寄せた。――鞄の音で注意を引いてしまったか。確かにこちらとしても無礼を働いてしまったかも知れない。彼はそう思い、先の行為を内心反省していた。
 しかしその心境は態度には表れない。何も言わず怪訝そうな表情でこちらを見上げてくる赤ら顔な中年男性のその態度に対して、先に不信感が立つ。久島にとってそんな顔で見上げられる程の無礼を働いたつもりはなかったし、何か不満があるならその口で言い出せばいいだろうと思ったのだ。
 不意にその中年男性の表情が和らいだ。微妙ににやついた笑顔へと変化してゆく。皺が刻まれ始めている顔では、瞳から笑っている。
 その変化に、今度は久島の方が怪訝そうな表情へとなっていた。そんな彼に、男が鼻で笑った後に言った。
「――ねえちゃん、独りかい?」



 唐突なその台詞を耳にした久島は、一瞬何を言われたのか判らなかった。しかしその台詞が脳に到達し言葉を内容を理解した瞬間、鼻白んだ。眉に深い皺を刻む。
「――………は?」
 久島の口から短い声が漏れた。その声は一言のみとは言えかなり低い音域で、女性のものとはとても解釈出来ない代物だった。
 その声を聴いて真相に気付いたらしい。中年男性の表情が激変した。飛び退るように椅子に身体を預け、顔を引く。驚きの表情を浮かべ、慌てた声が口から漏れた。
「――うわ、あんた男かよ!?」
「…男以外の何に見えるんだ?」
 その態度を突きつけられ、久島の表情がますます歪む。右手を胸元で広げ、何かを示すような素振りを見せ、不快そうに中年男性に告げていた。その声色は相変わらず低い。彼としてはそれは通常の音域であり、今は不愉快な状況ではあるがここで敢えて作った声と言う訳ではなかった。
 このスーツ姿の格好で気付け、そもそも女性が深夜にこんな店に来るか――久島としてはそう続けたい気分だった。そのような心境が先に立つため、年長者への礼儀を全く態度に表そうとはしていなかった。
 店内の喧騒は変化しない中、微妙な沈黙がふたりの間に下りる。勘違いして気まずい側と、勘違いされて不快な側が双方とも、その後何も言おうとはしなかった。
 そこに降りかかってきた声があった。
「――あ、久島さん。席取ってくれてありがとうございます」
 暢気そうな若々しい声が、久島の背後から届く。そこにはコップを1個ずつ、それぞれの手に掲げた波留が立っていた。その中には水のみが入っている。
 彼は久島の元まで歩みを進めた時点で、椅子ごと振り返ってきている向かいのテーブル席の中年男性の存在に気付いていた。どうやら久島さんと会話をしていたらしい――その空気を感じ取り、彼はその男性に対して微笑み掛け、ぺこりと頭を下げた。
 闖入者に気が削がれたのは、久島もその男性も変わらない。特に初対面たる中年男性は、その目の前に現れた波留に視線を向けた。眉を寄せ、まるで値踏みするように波留の頭から足元までをじっくりと見下ろしてゆく。
 その間、波留はきょとんとしつつも人好きのするような笑顔を保っていた。その彼の前で、男性は溜息をついた。鼻白んだような顔をして告げる。
「…何だ。君ら、大学生か」
 ――言うに事欠いて、今度はそう来るか!?
 傍らの久島は内心そう叫んでいた。その内心は態度にもある程度表れ、憮然とした表情が更に深まってゆく。しかしその男性に釣られるように改めて波留に視線を向けると、彼の表情は別の意味で歪んで行った。
 波留の服装は、久島や他の客のようにスーツ姿でなければネクタイを締めるようなものでもない。黒いシャツにスラックスを合わせており、その足元を飾るのは変哲もないスポーツシューズ系のスニーカーだった。癖の強い黒髪は纏まりがなく跳ね、後ろ髪は肩に着く程に伸びている。そこに肩提げ鞄を用いているのだから、この波留自身は大学生と思われても反論出来そうにない。しかしその巻き添えを喰っているのは、紛れもなく久島自身だった。
「――え、俺24で、もう社会の荒波に揉まれまくってますよ」
 中年男性に久島とは別の意味で勘違いされた波留は、同僚とは違い気分を害した様子はない。笑みこそ苦笑に変化したものの、軽い口調でそう答えていた。
 ――…揉まれてるか?
 傍に立つ久島は、その波留の言葉に対して別の方向に突っ込みを入れてしまう。少なくともこの半年間、傍で見て来た印象としては、自分が望んで就いた仕事に能力を十二分に発揮して挫折する事無く順調に案件を積み重ねている――久島は波留について、そんな評価を抱いていた。
 それは優れた能力もさながら、勤務態度の印象も強い。自然体で働いている雰囲気で、プレッシャーなど全く感じない。そんな態度で仕事をこなしておいて「社会の荒波」など何処にあっただろうか。むしろ彼らしくその大波を乗りこなしていないだろうか――そう思ってしまう。
 沈黙している久島と男性をよそに、波留はテーブルにコップをそれぞれ置いた。そしてやってきた店員に食券を渡し、千切られた半券を受け取っていた。
「…本当に、鯖読んでないのか?」
「まさか。そちらの久島さんは、俺より1歳年上ですし」
 やがて、怪訝そうに尋ねる男性に、波留は笑顔で応える。台詞の最後には片手で久島を指し示していた。
「…そうか。悪かったな」
 男性はばつの悪そうな表情を浮かべた。首を横に振る。そして自らの背広の胸ポケットに手を突っ込んだ。酔いがある程度回っているからか、その仕草は何処か緩慢である。
 そしてそこから取り出された小銭入れのファスナーを開き、彼は大きな硬貨を摘み上げていた。それを波留に向け、言う。
「これでビールの1本でも買えや、兄ちゃん」
 その態度に、波留は慌てた表情を浮かべる。両手を胸の前でぶんぶんと横に振って見せた。
「え、悪いですよー」
「勘違いして変な因縁吹っかけたのはこっちだからな」
 困り顔の波留に対し、その酔っ払いは硬貨を突き付けて押し付けて来る。若者の胸の前で振られている掌に、硬貨を握らせようとしていた。
 ――…子供の小遣いか?
 久島は傍からこの光景を眺めていて、そう突っ込みを入れたくなった。何せ「社会人」が、500円硬貨を譲り合っているのだから。
 もっと金額が大きいならともかく、これでは本当に「大学生」呼ばわりされても文句は言えない――久島はそう思い、憮然とした表情を深めていた。



 そのような一悶着を経て、中年男性は先に店を出て行っていた。
 彼らは大きく揉めた訳ではなかったため、他の客の興味を惹くような事態には至っていない。店内は普通にざわついたままで、食事を摂り終えて出て行く者や逆に食券を購入して入店してくる者の流れは、深夜とは言え通常通りに続いている。
 店の片隅にはテレビが設置されていて、番組が垂れ流されている。ゴールデンタイムならば地元球団の野球の試合などが流されていたのだろうが、この深夜帯には公共放送がそのまま映し出されていた。同じ時間帯に放映されている民放のバラエティなどを選択しない辺り、客層が見て取れる。
「――で、あの人と何があったんですか?」
 結局波留はその男性から、詫び代名目での500円硬貨を押し付けられていた。それはとりあえず彼の前に位置するテーブルの上に置き、財布などにはしまおうとはしていない。
「…特に言う程の事でもない」
 答える久島の表情は、相変わらず憮然としたままだった。彼は鞄を足元に置いただけで、背広は脱ぐ事無く席に着いている。
「そんな顔しておいて、何も気にしてない訳ないでしょうに」
 波留は苦笑を浮かべた。その頃には、彼らのテーブルにやってきた店員からビールがもたらされている。トレイの上に置かれたビールがまずテーブルに下ろされ、次いでお冷用と同様の種類である小さなコップが2個置かれた。
 トレイを胸に押し付けての軽くぞんざいな会釈が店員からなされ、波留は笑顔で手を挙げてそれ以上の用は無い旨を態度で示す。すると店員はそのままカウンターの向こうへと消えて行った。
「別にいいじゃないですか。大学生に間違われる位。俺達はあの人の年代からすれば、大学生も同然なんでしょうから」
 言いながら波留はビール瓶を手にする。良く冷えた茶色い瓶の表面には早くも結露の汗が滲み出ており、そこを波留の右手が覆った。ビールを手に、彼は久島に目配せする。
 久島は促され、傍らのテーブルに置かれた空のコップを持ち上げた。波留の側に差し出す。
 すると波留は微笑み、ビール瓶の口をそのコップへと傾けた。コップの縁とビール瓶の口許がかちりと音を立て接触する。そのまま瓶は更に傾けられ、茶色い口許から黄金色の液体が泡を伴ってこぽこぽとコップへと注がれてゆく。
「…大学生なら、まだ構わん。いくら背伸びしようが、我々は社会にとってはまだまだ若輩者である事など理解している」
 必要以上に泡立たないように気遣われているような量を注ぎ込まれるコップを、久島は眺めていた。その口許から、淡々とした声が漏れる。眉間には未だに皺が刻まれたままで、釈然としない思いを抱いている様が垣間見えていた。
「なら、何故そんなに御立腹で?」
 微笑みを浮かべたままの波留は、そう言いつつ軽く首を傾げた。その頃には久島のコップにビールがなみなみと注がれている。彼は手首のスナップを利かせてビール瓶をすっと持ち上げた。泡立つ水面から瓶の口が離れてゆき、彼は瓶をテーブルに戻した。
 久島は無言のまま、満たされたコップを自らの前に置いた。入れ替わりに彼はビール瓶を掴む。今まで波留の手が置かれていた側とは反対の辺りに手が触れると、冷たい表面と共に、そこに掻いた汗のような結露が掌を濡らす。彼はその冷たさを感じつつ、ビール瓶を持ち上げていた。
 波留が自らのコップを持ち、笑顔で久島に向けている。久島はそこに瓶を傾けてやり、先程彼に成された事を同僚に向けて行ってやった。幾分量が減っているために先程よりは傾けないと注がれないが、瓶とコップのサイズを対比するに後1,2杯ずつは飲めそうだった。
 こぽこぽと音を立てつつもビールが波留のコップに注がれてゆく。久島はビール瓶を持ち、波留はコップを持つ。お互いに相対しつつも同じ情景を見守りつつ、コップの上部に泡が浮かび上がってくるのを瞳に映していた。
 ビールがなみなみと注ぎ込まれ、コップの水面が盛り上がる。溢れそうだと思った波留は口から声を漏らし、両手でコップを支える仕草を見せた。そのまま体ごとそのコップを引こうとする。
 そこに、久島の声が響いていた。
「――女性に勘違いされたんだ」
「え?」
 波留は怪訝そうな声を上げていた。一体何を言われたのか、彼は一瞬理解しかねている。
「…こんな馬鹿馬鹿しい事、何度も言わせるな」
 続けて台詞を投げつけた久島は、俯き加減になりつつ、ビール瓶をテーブルに置く。そして眉間に皺を刻み、瞼を伏せた。
 そんな態度を同僚が見せた頃には、波留もその台詞の内容を理解していた。納得したように大きく頷く。両手を軽く合わせ、音を立てた。
「ああ…久島さん、綺麗な顔してますもんね」
 その台詞に、目を伏せたままの久島は厳しい表情となる。口許を歪めた。若干、吐き捨てるように言う。
「それ、男が男に言われても嬉しくないぞ」
 どうやら褒め言葉のつもりでその台詞は発せられた事は、久島にも理解は出来ている。しかし彼にとってそれは何ら「褒め言葉」になっていない。そしてその事実を彼は包み隠さず公開した。その褒め言葉を用いた同僚その人に対してである。
 その波留からの答えは来ない。久島はそれに気付き、目を開いた。――あくまでも私を褒めたつもりの相手に対して、文句を言い過ぎたか。そんな後悔の念が僅かながら彼の心中に去来する。
 彼は顔を上げ、前を見据える。視覚で状況を確認しようとした。その彼の視界には、笑顔の波留がコップを持ち上げてテーブルの中央に差し出している姿が入ってきていた。
 目を開いた久島は若干呆気に取られた表情を浮かべた。てっきり自分の言動に気分を害しているのではないかと危惧を抱いていたと言うのに、目の前の相手からは全くそんな様子が見られないからである。
 久島は差し出されたコップを一瞥する。しかし促されたように彼も自らのコップを掴み、突き出した。波留のものと軽く縁を打ち合わせる。それが波留から求められていた行為であり、乾杯の合図だった。



 久島は白く泡立つコップの縁を口許に導き、喉元に軽く液体を流し込んだ。そうする事で、独特の風味を持つ苦い液体が彼の口の中に広がる。
 場末のラーメン屋で出されるビールではあるが、客足が途絶えないだけあって回転率は良い上に補充を欠かさないようにはしているらしい。このビールはきちんと冷やされており、栓も先程抜かれたものらしく炭酸も抜け切っていない。このビールなりに美味しい状態で出されている様子だった。
 今までこうして色々と文句は言って来たものの、緊張感溢れる作業をこなした後でのビールの旨さは何物にも替え難いと久島は知っている。そして今、それを体感していた。抱えて来た日々の緊張が、その泡が解けるようにほぐれてゆく。空腹の胃がアルコールをダイレクトに吸収して身体の末端まで伝わる心地が早くもしていた。
 彼はほっとした気分になり、思わず口許に笑みが零れる。その口許からコップを外した。ふと気付いたように向かいの席の同僚を見やる。
 そこでは黒髪の青年が、満面の笑顔でビールを口につけていた。何処かしまらないとろけたような表情で、ビールの成分を感じ入っている様子である。判り易く感情を表している彼だったが、そこに不快感は全くないと久島は思う。
 ――さっきから…私は彼に言い過ぎたな。
 一口ながら入った酒は、彼の精神に対して潤滑材としての役割を発揮していた。度重なる予想外の出来事に、妙に反発していた自分を省みる。そしてそんな自分を受け流し続けた年下の同僚へ与えた苦労にも想いが至った――おそらく当人は、それを苦労だなどとは一切考えていないだろう事も、彼は判っている。
 久島は俯いた。赤色のテーブルの盤面を見やる。そこは古ぼけており、天井の蛍光灯の元でも彼の顔を映し出す事は無い。しかし彼はそこに溜息を吐き掛けた。ビールの苦味が口の中を通り抜け、僅かな酒臭さを発散させつつ吐息が外気に到達する。
 彼は自らの息を鼻腔に感じた。そしてそのままに、ぼそぼそと言葉を発していた。
「…昔からな、たまに間違われるんだ。喋れば明らかに男と判って貰えるから、まだマシなんだろうがな」
 その言葉に、波留は顔を上げた。彼は口許にコップをつけたまま、正面の久島を見据える。まるで渦中のその顔立ちを改めて確認するように、久島の顔をまじまじと見つめていた。
 やがて波留の瞳に笑みが浮かぶ。コップを口許で一気に傾け、液体を半ばの水位に至るまで口の中に流し込んだ。そして、言う。
「そんなに綺麗で女顔っぽいとなると、見る人によっては勘違いしちゃうでしょうねえ…」
 ――だから、そう言われても嬉しくないと言っただろうに。波留のしみじみとした口調に、久島は速攻でそう思っていた。
 そこで敢えてそう言い張るとは、厭味かからかっているのかと久島は思う。しかしささくれ立った感情をそのまま表す事は、すんでの所で思い留まっていた。それだけの心の余裕が彼の中に出現している。
 久島はコップを小脇に置く。その表面に浮かぶきめ細かな泡の層を一瞥し、口を開いた。
「――私には、姉が居てな」
「それは…初耳です」
「この件について君に話すのは確かに初めてだし、他の同僚にも話した事はない」
 意外そうな波留の声を耳にしつつ、淡々とした口調で久島は語り始めている。彼にとって、自分語りを他者に行うなど、滅多に無い事だった。しかし今日に限って、何故かそれをやろうかと言う気分に陥っている。酒のせいか、今まで迷惑を掛けてきた親友への罪滅ぼしか、或いはその両方なのか――彼自身、その行動原理がいまいち理解出来ていない。
 もっとも、家族構成など特に隠すような事実でもない。その関係が腹違いとか血の繋がりが無いとか、そう言った微妙な代物ならばともかく、両親に何の後ろ暗い事も無い実の姉弟なのだから――確かに疎遠となって久しい部分は微妙ではあるが、彼は今はそんな事まで触れるつもりは無かった。
「どういう理由か知らんが、地元では姉と良く勘違いされたんだ」
「へえ…じゃあ、お姉さん似なんだ」
「とは言え、私が彼女と似ているのは顔だけで、年齢差がそこそこあるからそれすら酷く似ている訳でもないはずなんだ。そして私の方が背はかなり高いし何より性別が違う。それだけの悪条件が重なっているにも拘らず、老若男女を問わず勘違いされ続けたものだった」
 そこまで語った時点で、久島は伏し目がちに溜息をつく。右手を口許に当て、手の甲でそこを拭った。喋り続けると、口の中の苦味が薄れてゆく。横目でビールがたゆたうコップを見やったが、とりあえず言いたい事を述べてから補給しようと考えた。
「あろう事か、逆の勘違いをする命知らずは全く居なかったらしい。人間の認識能力とは良く判らんものだと思うよ」
「…命知らずって、久島さん」
「私の姉とは、そう言う人物だ」
 久島が発した長々とした説明の中からある表現を捕まえて、波留は苦笑気味にそこを突っ込む。そして久島はそれに動揺する事もなく、さらりと切り捨てていた。
 そして解放されたように、久島はコップに手を伸ばす。すぐに縁を口につけ、そこにある液体を一気に喉へと流し込んでいた。



 ラーメンとは日本に定着したファーストフードの一種である。それだけに、通常のラーメン店においては調理の時間は然程掛からない。
 今回のこのテーブル席においても、ふたりがビールを1杯飲み終える頃には2杯のラーメンと1皿の餃子がもたらされていた。
 波留は店員に指示して久島の側へミニラーメンを出させる。取り皿が2枚用意されていた餃子共々、久島に勧めていた。
 久島は戸惑いの表情と共に、自らの前に出された料理を見やる。結局彼は今回の料理全てを奢られた格好になるのだが、自分が望んだ食事ではないし何より金額は微々たる物であるはずだった。次の機会、酒を1,2杯奢ればそれで完結する貸し借りだろう――そう考え、敢えて金の話は一切行っていない。
 そう考えつつ久島は、波留に続き、テーブルの傍らに置かれている箸箱から自ら使用する箸を取り出す。
 彼の眼前のラーメンは「ミニ」と但し書きがつけられているだけあり、波留が注文した通常の「ラーメン」よりも小振りの丼に収められていた。おそらくは女性や子供、或いは別に炒飯などの主食を頼んだ客からの注文を想定されているメニューだろう。
 ミニサイズではあるが、もやしやネギなどの野菜類やチャーシューやメンマなどのトッピング類は通常サイズ同様変わらない。麺とスープの量だけが少なくなっているようで、視覚的には結構な量がそこに収まっているように久島には思えた。やはり場末のラーメン屋では量が重視されるのだろう。正直、久島としては眺めているだけで胃がもたれる心地がする。
 そう考えていると、麺とスープを啜る音が向かいから聞こえてくる。豚骨の濃い香りが漂わせつつ、波留が満足げに自らのラーメンに口をつけていた。
 今は深夜だとかそう言う問題ではなく、久島はあまり食事を摂らない性質である。仮に昼食としてこのラーメン店に連れ込まれても、彼は同様の態度を取っただろう。いくら酒好きであっても流石に昼間にはビールは飲まないので、その時間帯ではそもそも彼に対して垂らす釣り針もない。
 そう思うとますますこのラーメンに口をつける理由はなくなるのだが、奢られたものである。せめていくらかは処理しなければ申し訳ないだろう。仮に残しても、この波留なら替え玉代わりに責任持って食べてくれるかもしれない――そんな消極的な考えを抱きつつ、とりあえず久島は箸を丼に突っ込み、スープが絡む麺を取り上げた。



 そんな感じで10数分が過ぎ去った。食事中には流石に会話は弾む事は無く、互いに目の前の食事を片付ける事に専念している。それが一段落した頃に、波留が沈黙を破った。
「――久島さん。スープ飲まないんですか?」
「…いや、もう勘弁してくれ」
 同僚からのその指摘に、久島は目の前の丼に視線を落とした。眉を寄せうんざりとした表情を浮かべ、顔を横に振る。波留がレンゲを用いて大きさの違う丼からスープを啜っているのに対し、久島は既に箸すらも置いている。それでもスープ以外は完食したのだから、当初の目標は充分に達成していた。
「スープまで美味しいのに」
「麺に絡んだ分で充分味わった。どうもこの辺りの味は、濃くてたまらん」
「京都の人には合いませんかね」
 久島はその問いには答えなかった。確かに味の好みには合わないが、それは幼少の頃から慣れ親しんだ味と違うだけである。その差異を認めないほど狭量ではない。それに彼が食事を摂らないのは味だけの問題ではなかった。
 その久々に摂った食事のせいで、久島には胃がもたれる感覚がする。そもそも明日が休日だから彼らはこの時間帯まで残業したのであって、深夜に帰宅してもすぐに眠る必要は無い。だから帰宅後には雑用をこなし、食べたものを充分に消化させてから休んだ方がいいだろうと考えた。
 そこまで考えてから、相手は一体今後の予定はどうするなのかと思い至る。研究職のくせに身体に気を遣っているらしい彼は、暴飲暴食はしない性質だろう。
「君、今晩帰ってからすぐには寝ないのか?」
「そうですね。暫く暇がなかったから、溜まってる片付けでもやろうかなと」
 問われた波留は、皿に残っていた餃子を1個箸で摘み上げる。それを小皿に僅かに溜まっているタレに浸け、そのまま口にした。ちなみにこの餃子についても、久島は勧められるままに2個は口にしている。
「本当だったら朝から走りたかったんですけど、流石に完徹後となるとちょっと無理そうです」
「…つくづく健康的な男だな。君って奴は」
 久島の口からは何処か呆れた声が出る。徹夜する人間が果たして健康的と言えるのかは別として、休日などにトレーニングを行うような人間が自分の傍に居る事が信じられない気がした。そんな要素は自分の中には一切持ち得ていないからだ。
 そんなぼやきを発しつつも、久島はテーブルの上にあるビール瓶を手に取った。当初よりもかなり軽くなったそれを、彼は持ち上げる。既に2杯は飲んだ上に現在は空になっていた自らのコップに、瓶を傾けた。
 しかしその口から液体はちょろちょろとしか流れて来ない。どうやら中瓶とは言えども、ふたり掛かりで飲んでしまえばこの程度が限界だったらしい。当てが外れた思いがして、久島は眉を寄せた。
「久島さんこそ少しは気を遣って下さいよ。食べない所でちゃんと運動しなきゃ痩せやしないんだから」
「………どう言う意味だそいつは」
 そこに投げ掛けられた波留からの台詞に、久島は顔を上げた。瓶を片手にしたまま波留を見やる。
 彼は年頃の女性のようにダイエットを心掛ける性質ではないし成人男性としては平均値を保っている体型なのだが、改まってその腰周りを指摘されると腹立たしいものがある。特に、指摘する側が相当に均整の取れた肉体を持ち、ウエストを絞っているとなれば。
 久島は苛立ち紛れにビール瓶をテーブルに置いた。かんと高い音が立つ。それから前のめりになり、テーブル越しとは言え波留の方へと迫る。何処か酔っ払いが絡むような印象で、語り掛けた。
「少しは年上の人間に気を遣ったらどうなんだ」
「遣ってますよ。ほら、一貫して敬語だし」
「それだけじゃないか。もっと態度で示せ」
「年上と言っても、どうせ1歳差じゃないですか。それに同期だし」
 波留はそう言い、面倒臭そうに掌をひらひらと振る。彼にとっては正に「酔っ払いに絡まれている」気分らしい。
 親友とは言え紛れも無く年下の存在である波留からそんな態度を向けられ、久島は憮然とする。そこにある自らのコップを引っ掴んだ。先程僅かに注ぎ入れた麦芽の液体を口へと導く。少量が残されていたばかりであり時間もある程度置いたため、それは冷たさをなくし炭酸も抜けていた。あまり旨いとは言い難い。
 結局望む液体を口に出来ず、久島は顔を顰める。その一瞬、図らずも店内の喧騒に耳を傾けていた。
 彼はふと、視線を中空へと上げた。その先に掲げられている古びたテレビが視界に入る。そこでは公共放送のアナウンサーがニュースを読み上げている。どうやら時報と共に定時ニュースが始まったらしかった。
 硬い印象を与えるアナウンサーが読み上げる原稿と画面に現れているテロップからは、目新しいニュースの存在は見当たらない。しかし久島は興味を惹かれたように、その画面を見上げていた。
「――久島さん?」
 中空を見上げたまま沈黙している久島に、波留は不思議そうな顔をする。その視線を追ってTVを注視しても興味を惹かれるものはなく、その疑問を込めて彼は年上の親友の名を呼んだ。
 その彼を、久島は見ない。TV画面を見据えて左手でテーブルに頬杖を突き、口を開いた。
「波留。君は間違っている」
「え?」
 唐突な指摘に、波留は声を上げる。その青年の顔を、久島は横目でちらりと見やった。右手では空になったコップをテーブルの上で弄んでいる。
 小首を傾げる波留としばし視線を合わせた後に、久島は僅かに表情を綻ばせる。ガラス製のコップを指で弾き澄んだ音を立て、言った。
「たった今、私と君は2歳差になった」



 その台詞を受け止めた波留は、TV画面を改めて見やった。そこに表記されている日は、既に次の日のものとなっていた。彼らは残業して夜食を摂った挙句に、日付を跨いだ事になるらしい。
 久島の台詞は彼らしく回りくどいものではあったが、状況を把握すれば充分に理解出来る。そして波留がそれを全て理解した時点で、その表情は目に見えて明るくなってゆく。テーブルに両手を突き、勢い込んで言った。
「――誕生日、おめでとうございます!」
「…止めてくれ。そんなに祝われるような歳じゃない」
 その勢いに、久島は若干引いている。自分で振った話とは言え、ここまで大仰に反応されるとは予想外だったのだ。
 しかしそんな彼を波留は構う事は無い。満面の笑顔を輝かせ、大きく頷いていた。
「折角だからビール1本追加してきます。ほら、さっきの人が奢ってくれてますし」
 そう言いながら波留は席を立つ。その勢いのまま、彼の傍らに置かれたままだった500円硬貨を拾い上げた。台詞の最後の方で彼は、その硬貨を久島に示す。
 その存在を久島はすっかり忘れていた。図らずもあの中年男性は、本当に彼らにビールを奢ってくれる格好になるらしい――しかも、それが誕生日祝いになる訳で、人の繋がりとはどう発展するのか全く判らない。
「おい、波留…」
「バスまではまだ時間ありますよ。お祝いがてらに、もうちょっと飲みましょう」
 呼び止めようとする久島を尻目に、波留は踵を返していた。硬貨を片手に彼は狭い通路を抜けてゆく。その勢いに、伸びかけた後ろ髪が翻った。
 独り残された久島は溜息をつき、背広のポケットを漁る。そこから携帯を取り出し、時刻を見やった。
 時報代わりのニュースの通り、つい今しがた日が替わったばかりである。1時過ぎに出るバスにはまだ時間があった。多少余裕を持って店を出るにしても、ビール1本をふたりで消費するだけの時間は充分に余裕があった。
 ふと目の前に影を感じ、顔を上げる。彼の前にはエプロン姿の店員が立っており、丼類を下げてもいいかと誰何しに来ていた。確かに食事を終えている状況なのだから、それは彼らの当然の仕事である。
 久島の許可を受け、アルバイト店員は手際よく食器類をトレイに乗せてゆく。空になったビール瓶や餃子の皿類や完食した波留の丼はともかく、スープが半ばまで残されている久島の小振りな丼も上手い具合にトレイに収める。
 久島はその作業を黙って眺めつつ、何時までも居座るのは迷惑であるような気分になる。この手の店は客単価が安い分回転率を上げて利益を得るものであり、食事が終わったらさっさと出て行くべきなのだろうと思ってしまう。
 アルバイトの手元が止まる。ちらりとそこに残されたコップふたつに視線が留まっていた。そこにはビールの泡が半ばこびり付いている以外には、何も入っていない。
 それを指し示して何かを言い掛けた時に、波留が彼に声を掛けていた。笑顔で波留は食券を示すと、店員は頷き半券を切り取って渡す。ふたつのコップはそのままに、重いであろうトレイを掲げて退出して行った。
 そんな様子を呆然とした様子で久島は見ていた。注文を終え、店員を見送った波留は改めて席に着く。そして自らを見つめている久島に気付いた。
「どうかしました?」
「いや…」
 波留に訊かれ、久島は口篭った。口許に右手を当てる。何かを考え込むような素振りを見せる。
 それから口許から手を外す。ちらりと波留を見上げ、ぼそりと言った。
「…君には日頃から本当に世話になっているなと、ちょっとな」
「何ですかそれ」
 波留はそんな久島の態度を一笑に付すように、爽やかに笑っていた。
 彼らの頭上ではアナウンサーが淡々と昨日のニュースを読み上げている。そしてそれを気にも留めない客が大半の店は、相変わらず賑やかなままだった。
 1日遅れましたが、久島誕生日SSです。
 
 彼の誕生日については去年もやりましたし、順調にノルマこなしてるんですかね。
 タイトルは昨年のものと合わせております。もうこれ以上、このタイトルシリーズの案は出てこねえぞ。
 
 ちなみに他のキャラについても忘れている訳ではなく、絵板で当該時期にちょこちょこ描いてたりします。思い出した頃に覗いて頂ければと。

 50年前の初期電理研時代の彼らを書こうとすると、リーマンSSになりがちです。しかし、こんな日常こそが大切ではありますね。2012年を終えた頃、久島はそれを痛感する事でしょう。
 この時代には日本の首都は福岡に移転しており、初期電理研も福岡の博多埠頭に開設されている設定になっています。俺設定だけどな。だからラーメンも豚骨ベースですし、他にも明示してないだけで福岡要素が色々含まれていたりします。東京消失してるのにプロ野球はどうなってるんだって疑問はありますが。
 …この手の深夜路線バス、まだ走ってるんですかねえ?昔住んでた頃にレイトショー帰りに良く利用してた記憶があるんですが…ちょっと曖昧。

 最近のセカンドシーズンは若干荒んでる内容なので、この辺で和みたいと思います。ハルにゃもとか2061年時報前の愉快な仲間達とかも書きたいけど、何分時間がねえ。
09/10/08

[RD top] [SITE top]