平穏な夜 - invest -
 誰にも何も言わずに事務所を飛び出した事には、始末の悪さを感じざるを得ない。この件について電通で連絡しようかとも考えたが、結局何を言えばいいのか判らなかった。
 そもそも誰と電通すべきか。事務所の主たる波留真理だろうか、それとも自らの妹たるミナモか、或いは――と、結論が出ない。逆に、彼の元へ誰からも電通が来ない。だからきっかけが全く掴めていない。それが蒼井ソウタの現状だった。
 このまま自宅に戻ろうかとも思ったが、挨拶も謝罪もなしに帰宅するのも違うだろうと思った。彼にはそう言う律儀な部分がある。
 大体、ミナモは帰宅せずに事務所にまだ残っているかもしれないとも思っていた。それは彼を待っているとかそう言う訳ではなく、単に居たいからそうしているに過ぎないにしても。
 そんな風に色々な考えが、彼の脳裏をぐるぐると回ってゆく。しかし実のある結論に至る訳でもない。ともかく彼は水陸両用バイクを水路に走らせていた。そのうちに目的の分岐路に着き、路上へとバイクを飛び上がらせる。
 陸用に変形させたバイクを海沿いの舗装路に暫く走らせ、事務所へ続く一方通行の道に入り込む。徐行モードに変えた上で、彼は滑らかに事務所の前にバイクを持って行った。既定の停車場にバイクを停め、ヘルメットを脱ぎ、収める。
 それから事務所の自動扉を所在無げにくぐった。ガラス扉の向こう側に見える応接スペースには、未だに灯りがついている。
 そろそろ夜も更けてきているが、事務所に住む人々はまだ生活スペースにその身を移動させていないらしい。しかし、それならば応接スペースに居るべき人影が見えなかった。ソウタは怪訝そうに室内を見回した。
「――おや、ソウタ君。お帰りなさい」
 その時、応接スペースの奥の方から老人の声がした。相変わらず朗らかな調子でソウタに話し掛けてくる。その彼の様子として最近変化したのは、車椅子の車輪の音ではなく杖を突く音を伴うようになった事だった。
 呼ばれたソウタが波留に視線をやるに、彼は普段のような上品めいた洋装ではなかった。ソウタが退席してからの1時間弱の間に一体何があったのか、老人は浴衣に着替えている。渋茶染めの浴衣で、これはこれで落ち着いていて上品な雰囲気を漂わせてはいる。
「丁度良かったですね。ソウタ君がお戻りになって」
 ソウタの方を向いてそう言いつつ、波留はゆっくりと歩みを進める。杖を突く音が微かに室内に響く。そしてそのまま、近くに設置してある事務机備え付けの椅子に腰を下ろした。手の中で杖を器用に持ち変える。
 そんな彼の様子を見ていたソウタはふと気付いた。彼は足元も浴衣に合わせたのか、草履を履いていた。おそらく下駄では流石に歩くのが厳しいのだろうとは、ソウタも思う。
「あの、そんなのお持ちだったんですか?」
 しかしソウタは戸惑いつつ、そう訊いていた。普段の服装との違いに意外である一方、逆に老人なのだから似合っていて当然とも言える。そう言う相反した感情を抱いていたからだった。
 そんなソウタに対して、波留は相変わらず微笑んで答えた。
「ええ。久島が用意してくれていたようです」
「…はあ」
 ――今度はそう来たか。
 ソウタは自分の上司の行動に、もう何が来ても驚かない用意はあった。和装の準備は想定の範囲内であると言える。おそらくは普段の洋装も直接的にはホロンが準備しているにせよ、そこに久島の趣味がある程度は含まれているのだろうから。



 彼がそんな事を思っていた時の事だった。
「――あー!ソウタってば何処行ってたのよー!?」
 途端に大きな声でそう叫ばれた。少女の甲高い声である。ソウタはその声のする方を見て、瞬時に呆気に取られた表情を見せていた。
「…ミナモ。何だ?その格好」
 ソウタの反応に妹は憮然とした顔をする。遠くからではあるが、軽く人差し指を兄に突きつけるような格好をして見せた。
「見てわかんないの?浴衣だよ」
「いや、それは判るが、何でそんなものをここで」
 ソウタは視界の向こうで楽しそうに裾を翻らせターンして見せる妹を見ていた。ミナモは桃色の浴衣に朱色の帯と言う、若干目立つような和装をしていた。そこに普段から髪に装着しているピンクのリボンが合っている。
「ホロンさんに貸して貰ったの」
 少女の口から意外な名前が出てきた。少なくともソウタにとってはそうだった。何故アンドロイドがそんなものを持っているのだろう。意外に衣装持ちなのだろうか。
「ホロンに?何で」
 色々と疑問に思う点があり、彼の声の調子や顔の表情からもそれが見て取れる。それに対し、ミナモの返答も表情も明快だった。
「彗星見に行くから!」
「はあ?」
 そう言えば、この妹はそう言う事を言っていた覚えが、ソウタにもあった。確か自分が退出する直前に、そう言う話を事務所の全員に向けていたのではなかったか?
 そう言う事情があるから、波留も浴衣なのだろうか。夏の人工島で天体観測だから、浴衣でもいいのかもしれない。しかし花火大会でもあるまいに――。
「――わー、波留さんも良く似合ってるよ!」
 ソウタとのやり取りをしている最中、ミナモは自らの視界の隅に老人の姿を認めたらしい。彼女はソウタの脇をすり抜け、さっさと事務机に収まっている波留の元へと向かう。
「ミナモさんもお似合いですよ」
「ホロンさんから借りたから、裾がちょっと長くて。軽く上げて貰ったんだ」
 椅子に腰掛けてにこやかに笑っている老人に対し、妹は若干屈み込んで賑やかに話しかけている。服装以外はいつも通りと言える状況を、ソウタは半ば呆れた風に見ていた。
「――お帰りなさいませ。ソウタさん」
 と、奥から更に声がする。ソウタが振り返ると、そこには女性型アンドロイドが立っていた。そして彼女もまた、浴衣姿だった。菫色の落ち着いた色合いである。
 ホロンは腰元に両手を合わせ、軽く一礼した。普段通りのポニーテールが首筋まで下がってくるが、普段とは違って露になっている素肌に掛かる。
「ソウタさん。浴衣の準備が出来ております」
「…俺のか?」
 唐突な台詞に、ソウタはぽかんとした。すると、向こうに居る老人からフォローが入る。
「ええ。僕のものですが、背の高さは同じ位ですから、ソウタ君にもお似合いかと」
「…まあ、そうでしょうけど」
 波留は言いながらゆっくりと杖を突き、再び立ち上がる。そんな老人の姿をソウタはまじまじと見ていた。
 波留は今まで車椅子生活だったために、その立ち上がった姿など見慣れては居ない。ソウタにとっては自分より視点が低いのが、自然な位置であった。
 しかしこうやって立ち上がった姿で相対してみると、実はふたりの身長は同じ位の高さなのである。むしろ老人の方が僅かに高い。永い眠りから目覚めた状況のせいか、彼の腰は年齢の割に曲がったりはしていない。その脚で立つようになってからも、杖を必要とするもののぴんとした良い姿勢を保っていた。
「――ねえ、波留さん。私達は先に行ってようよ!」
 ふたりの様子を見やりつつ、ミナモは元気にそう言う。波留の隣に立ちつつ、両手でアピールしていた。
「僕達だけですか?」
「うん。ソウタは着付けしなきゃ駄目だし、だったらホロンさんが居なきゃ駄目じゃない」
「――おい、ミナモ…」
 突然槍玉に挙げられたソウタは呆れた顔をして何かを言いかけた。腕を半ば伸ばす。それはミナモの行動を押し留めようとするかのような仕草だった。
「そうですね。僕達はお先に行っておきましょうか」
 しかし波留は微笑んでそう言った。彼は立ち上がった事でミナモより頭ひとつ高い位置から視線を下ろしている。そんな彼の顔を、ミナモは笑顔で見上げていた。
「うん。日本人向けの露店がたくさん出てるんだって」
「そうですか。それは懐かしいですね」
「波留さんなら絶対に楽しめるよ!」
 そんな会話をしているふたりを、ソウタは眺めていた。何となく割り込めない気分になってしまう。が、それではいけないと思い、口を挟もうとする。
「あの」
「ソウタ君。ではミナモさんと先に行っています」
「…はあ」
 波留のにこやかな笑顔と台詞に、ソウタは頷かざるを得なかった。この老人は確かに朗らかだが、それだけに有無を言わせない部分がある。彼は今、それを痛感させられていた。
 杖を突いてはいるが真っ直ぐに立ち上がって歩く老人の隣、頭ひとつ低い位置に少女の頭がある。そこに収まっているいつも通りのピンクのリボンが歩く度に軽く揺れる。
 老人と孫のようであるようで、別の印象すら与えるようなふたりが、自動扉の向こうに消えてゆく。その先は夜闇ですっかり暗くなっている。
「――ソウタさん。奥の部屋にどうぞ」
「……ああ」
 ホロンの台詞にソウタは首肯しつつ、振り返った。そこでは女性型アンドロイドが相変わらず人間に好かれるような笑みを浮かべている。それはプログラムの産物なのかどうなのか、最近の彼には判別が付け辛い状況となっていた。



 この人工島では、日本人やルーツを日本に持つ人工島生まれの人間が、最大勢力の一端を担っている。建設計画の中心に位置していた電理研職員の大半が日本人だったのだから、当然の帰越と言える状況である。
 そのためにこの島には日本を思わせる要素が多く用意されているようで、実はそれ程蔓延はしていない。画一化された洋風の都市型生活様式が日常となっている。何処の出身者であってもある程度自分に合わせる事が出来る生活様式である。
 だから、このように浴衣で歩き回るのは、ルーツを日本に持つミナモにとっても新鮮だった。特に彼女は、生まれた頃からこの方ずっとオーストラリア育ちである。人工島だけではなく、オーストラリアにおいても、彼女の周りに浴衣の人間をちらほら見る経験を持った事はなかった。
 海浜公園の一角で、日本式の屋台が立ち並び、あちこちに提灯が釣られていて淡い灯りを発している。それらがすっかり日も暮れた海沿いの道路を、ぼんやりと照らし出していた。
 そんな中を物珍しそうに周りを見回しつつ歩いてゆくミナモの一歩後を、波留はのんびりと歩いてゆく。暦上はすっかり夏めいてきていた。夜もいい時間帯になってきている事もあり、人通りはそこそこある。
 通りの入口付近で、浴衣を着ている実行委員かそれに類する職に就いている人物が内輪を配布している。そこにはカラフルな色彩でハレー彗星が描かれていた。波留はそれを差し出され、杖を突いていない片手で受け取る。ふと視線を先にやると、先行しているミナモの右手にもそれはあった。
 通りに並んでいる屋台毎に、甘い匂いや香ばしい煙がそれぞれに漂っている。そのあちこちに通行人が立ち寄っていて、彼らの中にも浴衣姿の者はちらほら存在していた。
 波留にとっては、確かに懐かしい光景だった。彼が生まれた東京下町、或いは育った鄙びた唐津。そのどちらでも見る事が出来たような、日本の風景がそこにあった。そこに心地良い海風が吹き抜け、彼の肌をくすぐる。
 空を見上げると、そこには明るく輝く月の他に、もうひとつの光源がある。それは彼が過去に見た記憶がないものであり、この風景の中で彼にとって唯一異質なものだった。
 輝く箒星が尾を伸ばし、天頂にある。暦の上では彼の幼い頃に回帰しているはずだったが、彼にはその覚えはなかった。
「――ねえ、波留さん」
 不意に波留はその声と共に、軽く手を引かれた。少女の瑞々しい肌の感触が掌に伝わってくる。
 が、歩くようになったとは言え、杖を突いている彼である。そのバランスを崩さないようなレベルの力で引かれてはいたが、それでも軽く足元がふらつく。杖が路面を滑り、彼の身体が少女に寄りかかった。
「あ、大丈夫?」
 その彼の状況に、慌ててミナモは老人の身体を支えた。彼女は元々介助実習生だっただけあり、手馴れたものだった。
「ええ、大丈夫ですよ」
 苦笑気味に波留はバランスを取り戻す。隣に立つミナモの肩に片手を置き、身体を引き剥がした。杖の位置を変えて路面をしっかりと捉えるようにする。
「それより、どうしました?」
「うん、あれ!」
 波留の問い掛けに、ミナモは元気に指差した。元々ミナモよりも頭ひとつ背が高い彼である。ミナモに寄り掛かった事により、彼女の肩越しに見る事になる。
 彼らが目の前にしている屋台からは甘い匂いが漂ってきている。その前面には発泡スチロール製の台があり、そこに竹串のような材質の細い棒がいくつも突き刺さっていた。
 その頭には紅く丸い物体が収まっている。少しばかり頭でっかちの印象を与えるようなものだった。その大きな頭が綺麗に透明な袋に覆われて、綺麗に結ばれている。
「あれ、何だか知ってる?」
 ミナモが不思議そうな声で、波留に訊いてきた。問われた方はその物体を眺めやるが、すぐにそれが何か思い出す事が出来ていた。それ程までに、このような状況において、定番のものである。
「ああ…林檎飴ですね」
「林檎?確かに紅いけど」
 目を細めて答える波留に対し、ミナモは小首を傾げていた。どうやらオーストラリア育ちの彼女にとって、林檎とはあまり縁がない食物らしかった。少なくとも波留は彼女の様子からそう考える。笑顔を深め、説明をする。
「それは飴のコーティングで、中に小玉の林檎がまるごと入ってるんですよ」
「へー!面白い!」
 途端にミナモは相好を崩した。楽しそうでいて興味津々と言った表情になり、両手を顔の前で打ち合わせる。
「こう暖かい気候だと林檎なんて珍しいでしょうに、人工島でも林檎飴を作れるものなのですねえ」
 林檎とは、その発育においてはある程度の寒さを必要とする果物である。そのために四季がなく何時でも夏の気候であるこの人工島では全く縁がない果物であるはずだった。
 もっとも、和洋中問わずに様々な菓子などの製造には良く使われる食材でもある。そのために生のままか冷凍加工品としての輸入物や、プラントで合成されたものなどが流通してはいる。それらを利用して、この屋台でも使われているのだろう。
「ふーん…」
 彼ら以外にも数人の通行人がこの屋台で足を止めている。そんな状況の中、ミナモは好奇心一杯の顔をして、発泡スチロールに突き刺さっている林檎飴の群体をまじまじと見つめていた。
 波留はそんな彼女を見やりつつ、微笑を浮かべている。そして彼女の後ろから視線を屋台の若い店主に向けた。指をひとつ立て、声を掛ける。
「――ミナモさん」
「え?」
 しばし林檎飴を見つめていた少女がその名を呼ばれ、顔を上げる。その視線の向こうにある波留の右手には、林檎飴がひとつ収まっていた。竹串の末端を2本の指で摘み上げるようにして持っている。そしてそれを、ミナモに差し出すように向けた。
「差し上げますよ」
「え、いいの?」
「構いませんよ。日本同様、値段設定は安いものでしたから」
 それは波留にとっては意外な事だった。人工島においてサプリメント系以外の食材は高額になりがちだった。それなのに、日本での屋台と大して価格が変わらない。
 これは何処かから補助金でも出ているのだろうかと勘繰りたくもなるが、だからと言って彼に関係がある話でもなかった。素直に安さを受け容れようと考える。
「ありがとう、波留さん」
 ミナモも素直な気分でそれを受け取っていた。あまり額が大きくないのならば、変に遠慮していてもおかしいと彼女は普段の付き合いで理解していた。後で別の物を何か奢ればいいのだ。
 軽く屋台店主に頭を下げ、ふたりはその場を離れる。人の波にゆっくりと流されるようにして、先へと歩いてゆく。
 ミナモはその間に、林檎飴の頭を覆っている袋をぺりぺりと剥がした。そこから紅い頭が露になる。彼女は球体のそれを大きくぺろりと舐めた。
「――…酷く甘くはないね」
「そうでしょうね」
「これ、齧るものなの?」
「どうぞお好きな方法で召し上がって下さい」
「ふーん…」
 通りを歩きながらミナモは何度か飴を舐めていた。そして軽く歯を立てる。飴が割れる硬い音がして、その内部からは別の感触が伝わってくる。
 歯触りのいい音がした。彼女は球体の端に歯形をつけ、林檎の部分までを齧り取っていた。その分を口に含み、噛み砕く。硬い林檎を味わっていた。
「…林檎は、ちょっと酸っぱいかなあ」
 口の中にまだ物を入れた状態ではあったが、ミナモはそんな感想を述べていた。噛み砕いた林檎の破片から林檎の果汁が溢れてきている。しかしそこに蜜のような甘さはない。
「飴と合いますか?」
「うん、丁度いい感じ」
 舌に残った飴の味の印象を加味して考えた結果がその回答だった。ミナモは口許に飴の破片を貼り付かせた状態で、波留を見上げてそう答えていた。
「それは良かった」
 波留はにこやかに笑って頷いた。と、耳元に手を当てる。歩きつつも軽く俯き加減になる。何かを聞き取っている様子になった。その様子を、ミナモは林檎飴片手に見上げている。
「波留さん、電通?」
「ええ…ソウタ君からです」
 ミナモに答えつつも波留は俯いたままだった。何かを電脳でやり取りしているらしいとミナモは判断する。彼女は電脳化していないために自分では出来ない動作ではあるが、この人工島においては有り触れた状景である。それなりに見慣れていた。
 そのうちに波留は顔を上げる。耳元から手を離した。微笑んでミナモを見やる。
「…ソウタ君とホロンがこちらに向かっているそうです。ですから、何処かで待ち合わせましょうか」



 屋台群を通り抜けた先には、こじんまりとした展望台のような場所が設置されていた。ベンチが何個か並んでいるだけの簡易なものである。
 ミナモ達は結局この辺りに暫く落ち着く事に決めた。電脳化している波留の位置情報は、ソウタやホロンの電脳にリアルタイムで受け渡す事が可能である。そのために特に待ち合わせの場所を決める必要は無い。
 とは言え、動き回っていては合流するのに時間が掛かるのは避けられないだろう。今回は特に何処かに向かっている訳ではないのだから、とりあえずあのふたりを待つ事にする。そう言う結論に落ち着いた。
 波留とミナモはベンチのひとつに腰掛けた。ふたりが座る分にはスペースに余裕があるが、特に何も気を遣う事無く、距離を詰めて隣り合わせになる。そしてその周りを歩く人の流れを眺めていた。視線の向こうにある空には箒星が輝いている。
 少し溜息をつき、波留はベンチの隅に杖を引っ掛けるような形で置いた。
 そして手の中にある青色のラムネの瓶を持ち替える。先程歩いていく途中で買ったものだった。冷やされた瓶は表面に汗を掻いている。触る彼の掌に水分が伝い、路面に落ちてゆく。
 持ち上げて、彼は軽く口をつけた。途端に弾ける泡の感触が口許に伝わってくる。そのまま彼はラムネの瓶を傾け、一口液体を口にした。冷たく甘い印象が口の中に感じられる。歩いた身体にはそれが染み渡ってゆく。
「波留さん、少し疲れた?」
 少し心配そうな声が、彼の隣から発せられていた。その声に波留は顔を上げる。ミナモの方を見やった。
「いえ、大丈夫ですよ」
 彼としては笑顔を絶やしていないつもりではあった。しかし隣に居る彼女にそんな事を言わせてしまうとは、何処か表情に出ているのだろうかと思う。彼自身では気付いていない何かを、彼女は感じ取る事があるのだから。
 ミナモは大きな瞳に心配そうな色を乗せている。少し齧られた林檎飴を片手に、波留を見ていた。
 彼女が座るベンチの脇には、団扇が2枚重ねられた状態で手を沿えられて置かれている。彼女が受け取ったものと波留のものとを、一緒に持っていたからだ。波留は杖を突く以上、あまり余計な物を持って歩けないためだった。ラムネを買った時点で団扇を受け取っていた。
 と、波留は何かに気付いたような顔になった。きょとんとした顔になり、次いで口許に微笑が浮かんだ。そこに手をやる。
「――ミナモさん」
「何?」
「あの、舌が」
「え?」
 苦笑気味な老人に短い言葉で指摘され、ミナモは思わず口許に手をやった。手の甲で少しその部分を拭ってみるが、粘り気を感じただけで特に何も判らない。口許から軽く舌先を出してみる。
「鏡とかお持ちじゃないんですか?」
「うん」
「そうですか…」
 ミナモ程の年頃の少女達ならば、化粧道具などを持ち歩いている子も少なくない。しかしミナモ個人は全くそのような事をしていなかった。浴衣に合わせた絣製の小さなポーチの中に入っているのは、携帯端末だけである。
「波留さん、どうかしたの?」
「…いえ、飴のせいで、ミナモさんの舌が紅く染まってしまっていて」
「えー!?」
 苦笑を深めた波留の指摘に、ミナモは頓狂な声を上げてしまっていた。大きく開けた口から覗く彼女の舌は、確かに何処か人工的な色で紅い。
「林檎飴って食べているとそうなってしまうものなんですよね」
 笑いながら波留は暢気な口調でそんな事を言っていた。それに対してミナモは両手を肩の辺りまで上げる。林檎飴を持つ右手と自由な左手とで拳を作ってみせていた。力んだ調子の声がする。
「それを食べる前に教えてよー!」
「いやあすっかり忘れてしまっていまして」
「もう、波留さん」
 頬を膨らませつつ、ミナモは口許を押さえていた。口の中で舌を数度押し付けて舐めてみるが、果たして色は落ちるのだろうか。良く判らなかった。
「――ミナモさん」
 また自分の名前を呼ぶ声を訊く。波留がにこやかな表情で、ミナモに対してラムネの瓶を差し出していた。
「これを飲んで口を洗うといいですよ。気にならなくなります」
 確かに水分を取れば少しは落ちるかもしれない。ミナモはその勧めに従う事にした。
 林檎飴を左手にやり、右手でラムネの瓶を受け取る。まだその表面は冷たいままだった。波留も一口しか飲んでいないために、瓶の中身はまだまだ一杯である。
 ミナモはその瓶に口をつけ、少し多めに口に含んだ。炭酸の感触が口の中で弾ける。それが舌を洗い流してゆくような気がした。林檎飴の甘さと酸っぱさと、ラムネの甘さと炭酸の弾ける事による辛味の印象が口の中で混ざる。
 その感触を味わいつつ、彼女は口の中を洗っているつもりだった。手持ちぶたさに視線をあちこちに巡らせる。薄く明るい空や向こう側に見えるヤシの群、手前を歩く人々の動き、そして隣に座っている波留と言った感じで視線が流れてゆく。
 その時点でミナモは波留をじっと見ていた。視線が固定される。波留はそれに気付き、微笑を浮かべた。いつものように微笑んで受け止める。
 しかし彼女の視線が普段と違う事に彼は気付いた。顔ではない場所を見ていると感じる。彼は怪訝そうな顔になり、少し考える。
 と、視線を落とした。和装のために波留の胸元が若干開いている。そこから少し、古く大きい傷痕が覗いていた。彼はそれに気付く。
「…少し、お見苦しいものを晒してしまっているようですね」
 言いつつ波留は苦笑した。指先で浴衣の右側の合わせを摘み、引っ張ってその部分を隠そうとした。彼は右胸から肩、首筋に至るまでに大きな傷痕を刻んでいたが、普段の洋装ならばきちんと前を閉めているために気付かれない部分だった。
「……あ、ごめん。波留さん」
「いいんですよ。見ていてあまり気持ちのいいものでもないでしょうし」
 困ったような顔をして謝るミナモに、波留は苦笑を浮かべたまま応じる。ミナモとしては今までの介助の経験上、着替えの際などにその傷を見てきたために初体験のものでもない。しかしあまりの大きな傷に、今でも視線が止まってしまう事は否定出来なかった。
 ミナモは何かを言い掛ける。軽く腰を浮かせ、波留に対して少し迫りつつ、何かを口走ろうとしていた。
 そこに、不意に別の声が飛び込んできた。
「――波留さん、ミナモ」
 青年の声がふたりの前に投げ掛けられる。その声にふたりは示し合わせたように顔を上げた。
「ソウタ」
 ミナモは短く彼の名を呼んでいた。ソウタはそんな妹に一瞥をくれただけで、すぐに隣に座る老人に対して軽く頭を下げる。
「お待たせしました、波留さん」
「いえ、構いませんよ。僕達はそれが判って先行しているのですから」
「はい」
 ソウタは顔を上げる。その細身の身体は藍染の浴衣に包まれていた。落ち着いた印象を与えつつもその若さは失われていない。波留の物を借りた格好になってはいるが、年頃に似合った格好になっていた。
 ソウタは再びミナモに視線をやる。ベンチに座っている妹を眺めやり、ふと見咎めるような表情になる。
「…ミナモ、お前どれだけ食べてるんだ」
「違うよ、こっちは波留さんので」
 兄の指摘にミナモは右手のラムネの瓶を掲げた。どうやら左手にも齧り掛けの林檎飴を持っている事が、この兄の気に食わないらしい。
 だから彼女はそれが誤解である事を示そうとする。しかし兄の表情はますます曇って行った。眉が寄せられてゆく。
「お前、波留さんのまで手をつけてるのか」
「だからー!」
 勢い込み、ミナモは立ち上がった。そのままソウタに食って掛かる。その後ろ姿に波留は口許に手を当てて苦笑する。いつものような兄と妹の光景を微笑ましいと思う。
 そのふたりから一歩引いた所から、ホロンがその光景を見ている。いつものように前で手を揃えて控えて立っているが、浴衣姿になっただけで印象がかなり変わっている。



「――全員揃った事ですし、そろそろ行きましょうか」
 言い争っている蒼井兄妹に対し、波留はそう言って助け舟を出した。その台詞にふたりは一斉に波留の方を向く。
「判りました。波留さんがそう仰るなら」
「うん、行こう!」
 畏まった兄の台詞を、妹が明快に遮る。波留に手を差し伸べようとして、自分の両手はすっかり塞がっている事に気付いた。だから、彼女は左手にあった林檎飴を、兄に突き出す。
「これ、ソウタにあげるよ」
「おい、ミナモ」
「これ、林檎だって。人工島だとあまり手に入らないんじゃない?」
 そう言われると、ソウタとしても少し興味を惹かれるらしい。差し出されたものを素直に受け取ってしまう。そして手の中に納まった齧り掛けの林檎飴をまじまじと見つめる。
 そんな様子に波留は相変わらず微笑んでいる。杖を右手に取り、路面に対して垂直になるようにする。きちんと路面を捉えるようにして、彼は体重をそこに掛けた。左手をベンチに突き、荷重をそこでも支える。少し力を必要とするが、彼はすんなりと立ち上がる事が出来ていた。数ヶ月前からは考えられない事ではあった。
 ふたりが座っていたベンチに残っていた団扇を、ホロンが腕の中に拾い上げてゆく。その様子を他の三者は見ていたが、彼女の作業が終わって頷いた時点で、誰ともなく歩き始める。
 通りの先に、空を見るにはもっといいポイントがあるはずだったが、ともかく4人で何処かに向かう事こそが重要だった。自然にソウタとホロンが並んで歩き、先行する。その後ろから杖を突いて少し遅い歩みになる波留と、その隣にミナモが並んで歩く。
「――波留さん」
「何でしょう」
 並んで歩く少女の声に、波留は前を向いたまま応対する。
「今度、久島さんも誘って、皆で一緒にまたここに見に来ようよ」
「久島もですか。彼は忙しい身ですからねえ」
 波留は顎に左手を当てて考え込む。現在では記念式典の参加もあるだろうし、様々な業務も抱えているはずだった。何より波留と交わした約束の実験もある。それらが片付くのは果たして何時の日だろうかと思う。
 そこまで考えた時点で、彼はミナモに視線をやった。そこには小首を傾げた彼女の顔がある。波留の返答を待っているかのような表情だった。
「…まあ、記念式典が終わって1週間後が彗星の近日点最接近ですから、その日位は空けさせるのもいいかもしれませんね」
「波留さんが誘えば絶対に久島さん来てくれるよ!」
 ミナモはそう断言する。それに波留は苦笑した。統括部長と言う任に就いているのにそう簡単な話はないだろうと思う。が、その断言を全て否定出来ないような気もした。それはこの3ヶ月間の積み重ねのなせる業だった。
「私、久島さんの浴衣姿も見てみたいし」
「…そっちですか。いや、今の彼が着てくれるのやら」
 波留はミナモの台詞に笑う。そして、50年前にはそう言う日もあっただろうかと考えた。彗星とヤシの木以外は、あの頃にも見ていた光景と相違ないこの光景に当て嵌めてみる。
 展望台から抜けた事により人の流れもスムーズになってゆく。そこに海風が通り抜けていった。



 それは、彼らにとって、最後となった平穏な夜の話。  
 21話エンドカード1枚で、ここまで妄想が広がったのは俺位なもんだろう。

 とりあえず色々ぶち込みました。SSと言うレベルじゃない位に長いんですが、ページ分割が面倒臭いのでこの形式で載せますよ。
 つーかこの話の真っ只中の頃、久島があの通路にて実質的にとどめ刺されてると考えると、全然平穏じゃないんですが。まあ知らぬが仏って事で。
 本当にこんな会話してたら、後で絶対悔やむだろうな。波留もミナモも。

 本当に久々に小説アップです。若干リハビリみたいなモードです。
 最終回が近いので、創作方面に意識があんまり回ってきてませんでした。とは言え9月始めには捏造最終回シリーズを絵板にてぶちかましていたのですが…見てない人もいるでしょうけど。
 それにしてもあれも、21話直後からやったんだよな…本当に22話以降、俺妄想がすっかり止まってるな…。
 杖突き歩き波留さんにも徐々に萌えてきたので、そう言う話も色々書きたくはあるのですが。色々やるのは最終回後かなあ…。まあ暢気にお付き合い下さい。たまに絵板で何かしてたりするし。

08/09/23

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