その前日 - inventory -
 短時間とは言え、電理研職員にとって安息義務とは重要な行為となる。それは電理研統括部長たる久島永一朗にとっても同様であった。
 毎日の日課と化している安息義務をこなし、久島はリラクゼーションルームから自分のオフィスへと戻ってきた。
 ガラスにも似た透明な物質で構成された扉に付属している端末に手をかざすと、彼がオフィスから退出してからの入室履歴が彼の電脳に流れ込んでくる。彼は多忙の身の上であり、その彼を捕まえようとしている職員は多い。しかし彼のオフィスには重要な情報が蓄積されており、ごく限られた人間にしか入室の許可を出していなかった。
 そのセキュリティ設定を電理研の職員は誰もが理解しているらしく、端末に残されている履歴は1件のアクセスと1件の開錠キーの発動のみだった。そしてそれらは同一人物の認証コードによってなされている。久島はそれに納得し、自らの認証コードでもって入室する。



 久島はオフィスに入り、そのままデスクへと歩みを進める。
 広いデスクの上は全面がメタル接続のための端末となっており、そのために整然と片付けられていた。そもそも電脳経由のデジタル資料が流通書類の大半を占めるこの電理研において、紙媒体などで机が乱雑になる事は殆どない。
 しかし、今回はそのデスクの片隅に、小さな山が出来ていた。いくばくかの紙媒体の資料が底面にあり、その上にはペーパー型モニタが数枚。それらに覆い被さるように置かれたボードには、小さなメモが何枚か貼り付けられていた。
 久島がデスクに手をかざして電脳を起動すると、そこに着信しているデジタルデータ資料も十数件存在していた。移動時間も含めて、彼がここから席を外したのは1時間以内であるはずだった。それなのに、色々と溜まるものだと彼は思う。自らの多忙さを痛感しつつも、彼はそれらに目を通してゆく。
 まずは電脳内のデジタルデータを処理し、次いでペーパー型モニタを起動する。このモニタには電脳経由で資料を投影する事も出来るが、今回はある一定の資料を表示する設定にして直接モニタを提出する形が取られていた。久島はそれらを読み取り、モニタ内で処理をする。
 最後に手書きのメモを単純に読む。それらに対する返信を電脳でしたためている際、彼の足元で微かな音がした。久島はそれに気付き、ふと視線を落とす。
 そこには小さな紙が落ちていた。軽くふたつに折り曲げられた状態になっており、それが少し開きかけている。開きかけた隙間からは小さな文字が垣間見えた。
 ――何かの拍子にボードから落ちたメモだろうか。久島はそう思い、ひとまず上体を曲げて床に落ちたそれに右手を伸ばす。指先で一端を掴み、それを拾い上げた。他のメモと同様に、顔に近付けて黙読した。
 が、その内容を理解した途端、彼は呆気に取られた。
 ――何だこれは。
 彼の脳内では、そんな言葉しか出てこない。
 思わず彼は自分の脳からメタルに接続した。一般領域から筆跡照合のプログラムを検索し、拾ってくる。そして、彼の電脳に履歴として残されている手書きのメモの視覚データ群と、今彼の手元にあるメモとを照らし合わせるプログラムを施行した。
 処理には1分も掛からない。そのうちに一致する筆跡が見付かった。その時には久島は溜息をついていた。果たしてそれは何を理由としてのものなのか、彼自身にも判別がつかなかった。



「――アイランド…ですか?」
「ああ。明日にでも行って貰いたい」
 現在は、時刻としては夕方となっている。しかし海底区画に存在する電理研においては、窓の外の風景で時刻を測る事は困難を極める。せいぜい減算してくる日光を感知して日の出か日の入りか、その程度しか判らないものだった。
 その夕方の頃、久島は自らのオフィスにて、いつものようにデスクに着いていた。そして彼の目前には、電理研の制服を纏った黒髪の青年が立っている。まだ年若い彼は、統括部長付秘書と言う肩書きを得ている。彼は蒼井ソウタと言う名であり、久島のオフィスに入室可能となっている数少ない人間のひとりだった。
 その彼が、訝しげな表情と声とを表して、久島の前に立っている。躊躇いがちに彼は上司に告げた。
「私は明日の朝からは別の案件を抱えているのですが」
「それが終わってからで構わない。急ぎではないし、すぐに終わる用件だからな」
 部下の予定は想定内だったようで、そう言って久島は目の前に立つソウタにペーパー型モニタを差し出した。そこにはある資料が既に投影されている。
 ソウタは黙ってそれを受け取り、眺めやった。色々と自分で操作しつつ、モニタから視覚情報を読み取ってゆく。
「――…ハル…マリさん…?」
「…ああ。日本語表記だと、大抵の人間が読み間違えるものだよな」
 若者の怪訝そうな声に、久島は僅かに苦笑する。上司の指摘とその態度にソウタは若干頬を紅くした。慌ててモニタを操作して英語表記にすると、その名前の別の読み方が表示される。
「…マサミチさんですか」
「そうだ」
 久島の肯定を耳に入れつつも、ソウタにはその名前に思い当たる事があるような気がした。直接関わった事は現状ではないはずだが、どうも彼に関する噂を耳にした事はあるような気がする。
 彼は統括部長付秘書と言う立場になっているが、実情は秘書めいた仕事ばかりやっている訳ではない。むしろ、人工島内のリアルに対する調査を担当する事が多い。
 人間に対するフィールドワークにも似た彼の仕事において、噂話は重要な位置を占めている。そこに真実が隠されている事も多く、玉石混合の状態で彼は記憶していた。



 ともかく彼はペーパー型モニタから顔を上げる。現状において読み取るべきデータは既に取得した。だから次の話を訊く事にする。
「このデータではアイランドの電脳隔離施設に滞在している方となっていますが、私は何をすれば良いのでしょうか」
「君には彼を迎えに行って欲しい」
「…成程」
 ソウタは納得した。久島から指示を下された時には、彼の脳内では記憶の片隅に残っていた噂の断片に行き着いたのだ。
 彼が持つペーパー型モニタには、身なりの良い白髪の老人が車椅子に腰掛けている映像が映し出されている。今までも何人かの職員が、この波留真理と言う老人を迎えに行っていた。しかし、その都度素気無く断られていると言う話だった。
 単に断られたのならまだいいが、別の噂では誰かが実力行使に出ようとしても返り討ちにあったとかなかったとか。そんな話も訊いている。只の老人相手に電理研の人間が何人も手を焼いているのだ。その理由は一体何か。
「――噂にも訊いていそうだが、彼の元では介助用アンドロイドが任務に就いている。彼女が波留を守っているのだ」
 ソウタの心中を知ってか知らずか、久島は手を組んで口を開く。淡々とした口調で続けていた。
「それは公務用アンドロイドの設定を変更して運用しているもので、彼をマスターとして貸与している。私がそのシステム管理者だ。その設定は現行最高値となっていて、並の人間では太刀打ち出来まい」
 電理研保有の公務用アンドロイドを単なる個人に貸与しているなど、ソウタには他にそんな案件は聞いた事がない。それだけ、この部長にとってはこの老人は重要人物なのだろうと判断する。しかし現状ではその最強のサポート設定こそが、部長の意思の邪魔をしてくれているらしい。
「だから、セキュリティ設定の解除コードを君に渡しておく」
 そう言って久島はソウタに右手を挙げる。ソウタは軽く頷き、かざされた上司の手に自らの手を合わせた。重なった掌同士の間から淡い光が一瞬漏れる。次いで、ソウタの電脳に情報が流れ込んで来た。短いアクセスコードと、音声認識用のコードだった。
「判りました。先生」
 ソウタはそう言って首肯し、掌を剥がした。単なる老人相手だというのに、本当に手に負えない状況らしい。だから回り回って自分に命令が下ったのだろう。自分が対義体格闘術を研究している事は、この上司にも把握されているはずだった。だからなのだろう――ソウタはそんな事を考えていた。



「――それと」
 話は終わっていなかったらしい。久島はそんな言葉を発し、右手の人差し指と中指で1枚の紙を折り畳んで挟み込んだ格好で、ソウタに差し出していた。
 ソウタは目の前に来たそれに視線を落とす。一瞬戸惑う。しかし、何か重要な情報のやり取りかと思い直す。
 このオフィスは久島の一存で電脳障壁を立てる事が出来、外部からの盗聴はほぼ不可能だった。しかし万が一と言う可能性もある。そのためにこのようなアナログなメモのやり取りで伝えたい情報もあるのではないか――ソウタはそう考えた。
 その結論に従い、ソウタは注意深くそのメモを受け取る。折り畳まれたそれを、彼はゆっくりと開いて眺めた。
 途端に彼の頬が赤く染まった。軽く息を飲む音がする。
「やはり君のメモか」
 久島はデスクの上で肘を突き両手を組んでいる。ソウタのそんな表情を見上げていた。久島自身は特に変わった表情を浮かべる事もなく、淡々とした声で続ける。
「このデスクの近くに落ちていたんだ。今日、君が資料を持ち込んだ時にでも落としたんだろう」
 ソウタは統括部長付秘書と言う待遇だけあり、他の職員との繋ぎを取る事もある。そして久島宛の書類類はまず彼を通す事となり、彼の手で久島のオフィスに運ばれてくるのが常だった。それは今日も変わらず、久島が安息義務のために退出していたとしても与えられた認証コードによって彼はオフィスに入室し、資料を置いて行っていたのだった。
「…失礼しました」
 ソウタは若干頬を染めたまま、メモをくしゃくしゃと折り畳む。そのまま自分のズボンのポケットへと押し込んでいた。彼としても、久島が推測した通りの状況でこのメモを落としたのだろうと認識したのだ。
「紛失しなくて良かったじゃないか」
「お手数お掛けしました…」
 上司の声にソウタは眉を寄せる。そして軽く頭を下げた。落とした事にすら気付いていなかったのだから、自分に情けなさを感じている。



 その彼の表情を見やり、久島は少しだけ唇を綻ばせていた。
「――で、それは一体何なんだね?」
 上司からのその問いに、ソウタは口篭った。何を答えていいのか彼には判らなかった。そこに上司からの淡々とした声が続いてゆく。
「どう考えてもそれは、仕事のメモじゃないだろう」
「…はい。申し訳ありません」
「別に見咎めている訳ではないよ。私は只、純粋に疑問を持っているだけなのだから」
 そこまで言った久島は、薄く微笑んだ。彼の記憶に残っているメモの内容を、脳内で反芻する。そうすると今となっては笑いの成分が脳内で弾けて仕方がない。
「何だったか…シャケとか卵とか豆腐とか葉物野菜とか、そう言った単語が書いてあった記憶があるんだが」
 ソウタは久島のその発言に軽く仰け反った。落ち着きかけていた頬の赤味が再来する。
 その単語の羅列は、どう考えてもこの上司の口から出るような言葉ではない。しかし、このオフィスに似つかわしくないその単語群は、果たして本当に彼が所持しているメモに書かれていた。
 ソウタとしては正直困っていた。この現状をどうすればいいのかと迷っている。しかしデスクで彼を見上げている久島を見るに、何も答えないままでは解放してくれない気もした。咎められている様子ではないが、この感覚は一体何だろうと若者は思った。
「――私が帰宅時に、買う予定にしていたものです」
「何だ、料理でもするのか?」
 久島の口からは意外そうな声が飛んでいた。ソウタとしても、その要素は今まで全く上司に見せてこなかったものだった。だから今回それが明かされてしまい、少し恥ずかしい心境にもなる。
「はい」
「意外だな。君は合理性を重んじるタイプだから、栄養摂取はサプリメントで済ませるものかと思っていた。しかもそのメモの書き方では、天然物を求めているのか?」
 人工島は完全循環型のシステムで生活が成り立っている。それで不具合が出ないようになっているのだが、食においてはあまり褒められた状況ではなかった。各種食材の生産ラインが需要に追い着いておらず、全ての住民に行き渡らないのだ。合成食材ならまだしも、天然物は高価であり一般人には高級食材と言う認識となっていた。
 そうでなくとも現代のこの世の中では食事に重きを置かなくなった人間も少なからず存在し、人工島の食事情も相まって、サプリメントでの「食事」も、選択肢のひとつとして一般的になっている。そんな状況下において、料理をすると言う行為は非常に珍しい。



「自分独りならば、サプリメントでも構わないと思うのですが…」
 歯切れの悪い若者の口調に、久島は合点が行った気がした。軽く溜息をつく。
「…ああ、すまないな。君のお父上は、今日は帰宅出来るだろうか」
 久島はソウタの父とも面識がある。彼の父は電理研のシステムを管理する立場にあった。
 彼はメタルを統括管理する重要な任に就いている事になり、その生活は仕事の犠牲となる事が多い。それは研究者としての彼の性格に拠る所が大きいが、確かに仕事が彼を多忙としている事は上司である久島にも否定出来ない部分があった。彼の「家族」を目の前にすると、それを申し訳なく思う気持ちが久島の中にも沸いて来る。かと言って唐突に帰れとも言い難い。
 そんな久島に対して、ソウタは若干慌てた風になった。軽く手を横に振る。
「いえ、父は大変な立場なのは私にも判っていますから、父のためではないのです」
 その態度に久島は怪訝そうな顔をした。それならば一体誰のためだと言うのか。そこにソウタは短く答えを出した。
「妹です」
「君には妹さんが居たのか?」
 それも久島にとっては初耳だった。一昔前の日本ならば部下のプライベートを把握する事も上司の仕事だっただろう。彼が以前生きた国には鬱陶しくもそのような文化が根付いていた。
 しかし現代は全ての所属において、人間は「個人」である事を重要視する。誰もが必要以上にプライベートには介入しないようにするのが、礼儀だった。
「はい。最近人工島に越してきたのです」
「そうなのか…」
 彼の口振りからして、その妹とこの兄とは今まで別居状態にあった事になる。そこには何か特別な事情がありそうだが、久島にはそこまで踏み込む意味を見出せなかった。あくまでも彼らは「個人」である。



「――判った。となると、君としても早く帰りたいだろう。妹さんは学校か?」
「はい。中学生ですので」
 ソウタからもたらされた新たな情報に、久島は目を細めた。それは丁度いい年齢差であるように思えた。微笑ましい気分になる。
「良い兄を持って、彼女は幸せだな」
 僅かに微笑を零しつつそんな事を言う久島に対して、ソウタは何も答えなかった。今まで久島とこのような会話をした事がないので、一体どう答えていいのか判らない。
「私からは以上だ。定時になったら遠慮せず上がりたまえ」
「…はい、先生」
 上司としての態度に戻ったらしい。久島の言葉にソウタも自分を取り戻し、軽く頭を下げた。そのままきびすを返し、デスクの前から立ち去ろうと数歩進めた。
「――ああ、そうだ」
 そこに久島の声が再び届いた。ソウタは反射的に足を止める。
「…何か?」
 訝しげに彼は振り返っていた。まだ何か用件があるのだろうかと思う。
 少し遠ざかったソウタの視界の向こうで、久島は相変わらずデスクの上に肘を立てていた。顔の前で両手を組み、ソウタを見ている。その表情はいつものような真面目腐ったものだった。その様子に、ソウタとしても表情を引き締めた。
 ふたりの視線が中空でかち合う。ふと、久島の瞳が少し笑みを零した。
「――それで、君は今日買う食材で、一体何の料理をするつもりなんだね?」
 その台詞に、ソウタは面食らった表情になった。何を言い出すのかと思う。そもそもそんな事を訊くような人物なのだろうか。今までこんな会話を交わした事がないので判らない。
「…明日の朝食の予定です」
 しかしソウタは馬鹿正直に答えてしまう。若干のプライベートであるはずだったが、軽く追求されても悪い気分には陥らなかった。
「内容は?」
「メモの通りに食材が手に入るかは判りませんが、一応シャケの切り身を焼いて、玉子焼きと…味噌汁は豆腐とネギの予定で、後は手に入った野菜でサラダでも作ろうかと」
「そうか。懐かしい響きだな」
 その時、ソウタにはまるで少し離れた上司が楽しそうな表情を浮かべたような気がした。しかしあくまでも気のせいだろうと思う。
「妹さんに宜しく。明日のアイランド行きの報告を待っているよ」
 瞼を伏せた久島はそんな事を言った。椅子に深く身体を預けたらしく、僅かに軋む音がソウタの耳にも届いた。
 これで今度こそ話は終わりだろう。ソウタはそう思い、上司に対して再び会釈した。そのまま彼はオフィスから立ち去って行く。
 それは、2061年4月10日の夕方の事だった。
 
 と言う訳で、1話の前日の話です。部下を少しいじる久島部長。
 ソウタはこんな風に「今日のお買い物」メモを持ってると思うんだ。自分の電脳に収めておくんじゃなくて、きちんと紙に書いてそれを見ながらスーパーとかで買い物してると思うんだ。
 
 1話2話ネタだけではなく、今まで放映された回から色々なネタを拾ってきています。ある意味総集編?
 もしかしたら「夜明け前」「黎明」を読んでいた方がいいのかもしれませんが、直接的に絡んでくる訳ではないので注意書きには載せてませんでした。こっちは気楽なSSですし。

 本当は「黎明」の後書きで書いていた「今度書く予定の気楽なSS」ってのは、これじゃありませんでした。色々やってるうちにこれを思いついたので、とりあえず形にしただけで。
 そういや最近久島まともに出してないぞそう言うSSの方を先に書こうと言う政治的な判断も働きました。あちこちの話で話題には出てるんですが、当人を全然出してないなあと気付いたもんで。

 と言う訳で、次は何を書くのか決まってません。いい加減「ローレライ」の続きか、それとも「黎明」繋がりのとてつもなく暗い久島のターンか、それは書いてて疲れるから明るい馬鹿話SSか。

08/07/24

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