老人と海 - insulate -
 暦の上では2月だと言うのに、駆け抜けてゆく風は暖かさを含んでいる。
 南洋にぽっかりと浮かぶように建築された人工島には季節はなく、常夏の島だった。それは、アイランドと呼称される、人工島に隣接する天然島においても変わらない。島の大半を占める天然の森林の組成はジャングルとなっており、人間が居住する区画にもヤシの木が立ち並んでいる。それがこの地域の有り触れた風景だった。
 そう言う知識は波留真理も持ち合わせていたが、彼自身がそれに慣れるには未だに時間が掛かりそうだった。彼は望んでこのアイランドを訪れて居住している訳ではない。目覚めたらこの島に居たのである。それがこの1月の話であり、彼の常識では今は冬だと言うのにこの島では汗ばむような気温が保たれていた。
 ともかく彼はこの周辺海域にて、海洋調査中に事故に巻き込まれ、昏睡状態に陥った。それが50年前の話であり、彼はそれから今年の1月まで一切目覚める事はなかった。その間も彼の肉体は容赦なく時を刻んでゆく。彼が眠りから覚めた時には自覚もなく82歳と言う扱いを受け、そして身体もその扱いに相応しいまでに衰えていた。
 眠りに就く以前は彼はダイバーであり、身体的にかなり優れた人間だった。それが目覚めた今では彼の両脚は用を成さず、動かない。そのために車椅子での生活を余儀無くされている。
 その他の点においては特に身体を壊している事はない。しかし体温は幾分低くなり、太陽の眩しさに瞳が負けるような気がした。声の調子も若干変化し、加齢のせいか無意識のうちに喋る口調も違ってきていた。
 逆に意識は鮮明のままだった。ずっと休眠状態にあった脳は、目覚めて以降は50年前同様に深い思惟を保つ事が可能だった。老人特有の病理に冒されてはいない。それは果たして自分にとって救いなのか、それとも残酷なのか。波留自身にはどちらとも言い切れなかった。
 そんな状況の中、車椅子に収まった波留は、海に突き出した桟橋の先端に居た。介助施設に入居している彼は病院服をその身に纏い、常夏だと言うのに低い体温をそれ以上落とさないためにも上着を羽織っている。後ろに纏めた白髪の上からは帽子を被っていて、顔に影を落としている。その影が掛かる目には、瞳を保護するために丸いレンズを持つサングラスを掛け、そこには眩しさを保ったままの夕陽が映し出されていた。
 サングラスに守られた彼の瞳からは、眼前に広がる海と空を見通していた。大きな夕陽が空をオレンジ色に染め上げ、そこに帯状の白い雲が掛かっている。空と海との狭間にも沈む夕陽の縁が接触し始めており、波間にも赤の成分を落としてきていた。
 遠目には水平線の向こうに島影が見えている。それは5キロ先に位置する人工島だった。時折海の上を点と言うには若干大きく見える物体が行き来している。それは、人工島とアイランドとを繋ぐほぼ唯一の交通手段と言える定期船だった。
 そして今も波留の視界の中で、海の波を切り裂き白い筋を巻き起こしつつその点が進んでゆく。定期船の実際の速度はそれ程遅いものではないが、遠目からの視点ではゆっくりとした動きに見える。それが着実に海を走破して行こうとしていた。
 波留が桟橋に出てこの光景を眺め始めて、かなりの時間が経っている。だから彼も、定期船の運航を幾度も見送っていた。
 只、海を眺めているだけの、無為な時間を過ごしている。しかし今の自分に果たして有意義な時間などあるのだろうか。――彼は目覚めて海を眺めるようになって以来、ずっとそんな事を考えている。
 潜っていたら事故に遭遇し、あの一撃を喰らい、そのせいでほんの数分間気を失っていたはずだったのに。意識はそんな感じで浮上し、目を覚ましたと言うのに。
 実時間では50年が経過しており、肉体もそれだけの時を刻んでいた。50年を無駄にしてしまい、目覚めた今ですらその未来があるのかも判らない。
 50年前にも彼はこのアイランドから人工島を眺める事があった。その時代には人工島は建設中であり無骨な建築ブロックの塊で、あのように緑には覆われてはいなかった。この天然島は名称がつけられた以外には、殆ど印象は変わっていない。この桟橋から眺める空と海の印象は同じままで、50年の時の経過を感じさせない。
 変わったのは、自分自身だった。爽やかな空の元に軋むような自らの肉体を常々感じる現在の彼は、生きているだけでそれを思い知らされていた。
 沈みゆく夕陽を眺めている彼は、その目許に光が反射してきたのを感じる。それを気に留め、ふと視線を落とした。
 彼の腕は車椅子の肘掛けに置かれている。その左手首に嵌められたダイバーウォッチが夕陽の光を弾いていた。その時計めいた機材は古ぼけたものではあるが未だに現役であり、デジタル画面には現在の時刻が表示されている。しかし装着者が地上に居る今は、その機能は時計でしかない。
 波留は、サングラスの色彩に透過された視界にそれを映し出している。微かに左手の指を動かしてみると、その指の間にかさついた感触がした。肘掛けに触れている指先は冷たく、動かした事で陽に当たる部分をなぞる格好になっている。そこから熱さとも取れる暖かさを感じた。
 海から柔らかな風が吹いてきた。潮の香りと昼の残滓を感じさせる匂いを桟橋の波留まで運んできて、彼はそれを鼻腔に感じた。首の間をすり抜けてゆく風が、帽子と車椅子の背もたれの間にある長い白髪を揺らす。揺れる髪と通り抜ける風とが、首筋をやんわりとくすぐっていた。
 自分だけが変わってしまったのだろうか。
 例えば、この視界の向こうにある人工島に居る、50年前は親友だった人間はどうなのだろうか。
 彼はそんな事を思う。海を眼前にした思考は、結局はそこに行き着く。脳裏に浮かぶ50年前の光景から、変わってしまったのは自分だけであるように思える。実際にあの旧友は、その容貌すら変化させて居なかったのだから。
 全身義体化と言う施術の存在を、波留は目覚めて以来初めて知った。科学技術の水準が、人間の肉体を全て機械に置き換える事態にまで至っている事実に驚いていた。それは金銭的にも適性としても、誰もに可能と言う訳ではない。しかし波留の旧友はそれを選択し、50年を経た今尚、波留が知る「彼」のままで存在していた。
 しかしその事実は、唯一変わってしまった自分の存在を印象付けてくれていた。何を思ってその姿を自分に晒したのかも理解出来なかった。
 それを思うと、無為に通り過ぎて行った時の重さを思い知らされる。波留はサングラスの奥で目を細め、眉を寄せる。軽く手を握り、力を込めた。
 確かに50年間を無駄に浪費していた。しかし、だからと言って、時の流れに取り残された自分に今から何が出来ると言うのか。このまま残りの時間すらをもここで浪費して終わらせる事しか出来ないだろう。
 下に向けた視線の向こうで、海の波が夕陽の光を弾いてちらついている。桟橋に寄せる波が微かな水音を立てていた。潮の香りが彼に届いてくる。
 それを見ていると、波留は意識しないままにゆっくりと肘掛けに当てた腕に力を込めていた。車椅子に腰掛けた身体を軽く前屈みにして、海を覗き込むようにし始めている。
 彼の車椅子には安全装置が備わっていて、進路上の段差などを感知してある一定の距離から先には稼動しないようになっている。今の彼が居る場所は、出来る限り車椅子が許してくれる桟橋の先端だった。
 しかし今、彼はその先を求めようとしていた。脚が利かない以上、少しでもバランスを崩したならば、そのまま倒れる事だろう。そしてその先には彼を支えるべき桟橋はなかった。



「――マスター」
 その時、不意に波留の耳に、女性の声が届いていた。穏やかな口調で彼を呼称する。それに次いで、桟橋に足音が響いてゆく。
 波留はそれに我に帰る。自分が何をしようとしていたのか、自覚した。しかし慌てる事もなく、ゆっくりと腕から力を抜く。軽く浮き上がっていた腰を冷静に車椅子に戻していた。
 そして彼は振り返った。そこに居るべき、黒髪の女性の姿を見出す。
「ホロン。買い出しは終わったかい?」
「はい。もう日が暮れます。部屋に戻りましょう」
 黒髪を後ろでひとつに纏め、シャツにネクタイを巻いてタイトスカートの女性が、肩にトートバッグを提げたまま桟橋を歩いてきている。その彼女が波留に近付いてきていた。
 彼女は何も見咎める事無く、淡々と歩みを進めてきていた。波留には彼女が今の自分の行動に気付いていないのか、それとも気付いていたからこそ冷静に声を掛けて我に帰らせたのか――判断はつかなかった。
 彼女は人間ではなく、アンドロイドである。2061年現在の技術水準は人間の機械化だけではなく、完全にAIのみで稼動する機械体までもを商品化出来るまでに至っていた。
 それは50年前からやってきたような格好になっている波留にはやはり、驚くべき事であった。しかしもう慣れつつある。彼は環境においては、全ての変化を受け容れていた。それは諦観とも表現出来る感情の産物だった。
 ホロンと呼ばれた介助用アンドロイドは、波留の元まで辿り着く。そのまま屈み込み、車椅子に腰掛けている彼に視線を合わせた。標準装備である眼鏡の奥にある人工体の瞳には、穏やかな表情が見て取れる。
 強い海風が吹き抜けてゆく。それは波留の髪だけではなく、ホロンの黒髪も揺らして行った。彼女の柔らかな首筋に掛かる後れ毛を見ていると、本当に人工物なのかと波留は思いたくなる。しかし、やはり何処かが人間とは違っていると感じてもいた。
 そう思うと、彼はふと視線を逸らした。海を見やる。まるで、逃避するように。
「マスター」
 再びアンドロイドにそう呼ばれ、彼は視線を戻した。すると、彼女の手に何かがあった。
「これを差し上げます」
 そう言ってホロンはにこやかに微笑み、波留に手の中にあるものを差し出してきていた。それは平べったい長方形の箱であり、簡素なラッピングを成されていた。
 波留は一瞬戸惑うが、言われるままに思わず右手を差し出していた。曖昧に開かれたその手に、差し出された箱の先端が収まる。
 彼は軽く手を閉じ、それを受け取っていた。手に冷たい感触が伝わってきた。どうやら冷やされているらしく、夏の空気に晒されてゆくうちに箱からは微かに白く煙っていた。
「…何だい?これは」
 波留は箱を傾け手にしたまま、ホロンに怪訝そうに尋ねていた。確かに彼はこの介助用アンドロイドに買い出しを頼んではいたが、それはあくまでも個人所有用の旧式端末の部品である。このような小洒落た包装をされるようなものを買って来るような覚えはなかった。
 マスターの問いに、ホロンは屈み込み微笑んだまま答える。
「チョコレートです」
「…チョコレート?何故また」
「今日はそう言う日だそうですよ」
 ホロンの表情に僅かに困ったような印象が含まれる。しかしそれでも彼女は微笑んでいた。
 波留は彼女の台詞に、半ば口を開けた。それは懐かしい響きであり、端的にその日の名称を思い起こさせるに充分だった。
 ――まだそんな風習が生き残っていたのか。人間の営みと言う奴は、然程変わらないらしい。彼はそんな事を思っていた。
「――…お嫌いだったでしょうか?」
「…いや、そんな事はないよ。たまにはこう言うものを食べるのもいいだろう」
 困ったような表情を浮かべているホロンが遠慮がちにそう尋ねてきた。波留はそれに苦笑する。
 彼女に否定する答えを返し、そのチョコレートの箱を目の前に掲げた。これが冷やされているのはここが常夏の島であるためで、買って帰宅するうちに溶けるのを防ぐためだろう。彼はそう推測していた。
 このアイランドには、繁華街と呼べるようなものはあまり広がっていないはずだった。それはこの島に滞在する人々がそれを求めて居ないからである。仮にそう言うものを欲するならば、定期船で1時間の距離にある人工島を訪れたらいい話だった。彼自身はこの施設の敷地内から出た事はないが、そう言う話は訊いていた。
 そう言う街並であっても、その手のイベントに対応して品物を並べるだけの事は出来るらしいし、それを楽しもうとする人間も居るらしい。確かに行為自体は気軽なイベントではあるから、妙に力んで準備する事もないのだろう。この手の中にあるチョコレートも、波留にはそれ程高級なものとは思えないのだから。
 そんな思惟を巡らせる波留の視界の隅で、ホロンが僅かに不安そうな表情を浮かべている。確かにこれは彼女の任務からは逸脱した行為であり、彼に無断で金銭を他の事に費やした事にもなるのだ。叱責されてもおかしくない話だった。
 しかしそれならば、人間の命令に対して杓子定規に行動すべきアンドロイドが何故、このような融通を利かせたような事をするのだろう。これもまた自立型AIの思考の範疇なのだろうか――プログラミングにも造詣がある波留は、そんな事を思った。
 ならば、何故こんな行動を取るのだろう。アンドロイドである彼女には、全ての行動に意味があるはずなのだから。
 それは――。
 波留は黙り込んだ。ゆっくりとチョコレートの箱を持つ右手を、膝の上に下ろす。膝の上に箱を落ち着けた。冷気が膝の上に広がってゆく。
 そして彼は右手を挙げ、顔の前に持ってきた。そっとサングラスの蔓を指で摘み上げる。そのまま顔から外し、瞳を露にした。
 そのまま彼はその目を細める。口許を綻ばせる。皺が寄った顔に笑顔を浮かべた。――そう在るように心掛けた。
「ありがとう」
 好々爺めいた表情を浮かべた口許から、そんな感謝の声が漏れていた。その声は穏やかではあるが、しわがれている。紅い夕陽が彼の顔に掛かり、陰影を作り出してゆく。
 そんな彼の表情を受け止めたホロンもまた、笑顔を浮かべていた。何処となくほっとしたような印象を受けるような表情になる。
「喜んで頂けたのならば、幸いです」
「ああ――」
 波留も微笑んでいた。彼女のように頷く。そして俯き加減になり、サングラスを再び掛けた。その最中に彼女に呼び掛ける。
「じゃあ、部屋に戻ろうか」
「はい、お送り致します」
 ホロンがそう言い、立ち上がった。肩に掛けていたトートバッグが軽く落ち掛けるが、彼女はそれの肩紐に手を掛けて持ち上げていた。再び適当な位置に掛け直し、落ち着かせる。
 それからホロンは波留の背面に回る。そこから持ち手を引き出し、車椅子をゆっくりとその場で回転させる。海を向いていた姿勢から、逆方向に向けていた。
 波留の視線が、海から施設へと向き変わる。彼はそれを見やった。膝の上が冷たくなってきたような気がして、右手で再びそこにあるチョコレートの箱を持ち上げていた。
 サングラスで色付いた彼の視界は落ち着いている。全てが単色に見える。フィルターを通して見るような世界に思われた。その口許にはもう笑みは浮かんでいない。
 ――僕にはもう二度と、心から笑える日など来ないだろう。
 波留は何処となく他人事のように、そう思っていた。
 それは彼女だって同じだろう。彼女の行動は全て僕を和ませようとしているだけなのだから。
 それはあくまでも全て、AIに設定されているだけだ。プログラムによって限りなく人間に近付ける事は出来ても、彼女らは絶対に人間の心は持たないだろう。
 凍り付いている僕には、お似合いと言う訳だ――。
 遠く聴こえる漣の音が何故か波留の耳についている。俯いているとサングラスが落ちてくるような気がして、彼は眉間をそっと押さえた。
 車椅子の車輪が桟橋の板目を捕らえ、微かに揺れを伝えてくる。施設の建物に近付くにつれ、他の人間の声も聴こえ始めていた。それに従い、全身に海の気配を感じ取る事が出来なくなりつつある。
 紛れてゆく気配に、彼は軽く溜息をついた。  
 バレンタインネタ…のはず、なんですがね。時期が時期なので、微妙に寒々しくて暗いですね。
 肝心の14日は朝から外出して終日帰宅しない予定なので、今日のうちにアップしておきました。14日深夜はネカフェに泊まれるとも限らんのよ。

 波留が目覚めたのが2061年1月と本編で確定。そしてバレンタインデーは2/14。本編スタートが4/11で、その時点でも波留さんはあんなノリですから、おそらくバレンタインデーの頃はまだまだこんな感じで荒んでたんじゃないでしょうか…と、そう言う話です。
 本来は絵板でやってるバレンタインネタの一部の予定だったんですが、小説でやった方が流れが判り易いし他のネタに埋没しない(描写上連載形式にしないと判り辛いですしこれ)と思われたので、忙しい合間を縫って小説書いてみました。
 おかげでセカンドシーズン3話が押しそうです。うわあ。

 時間軸は、うちの「夜明け前」「黎明」より後と言う事になっています。だから機材の買い出しとかに出かけてるんですよホロンが。まあ本筋には関わりないので、どちらも未読でも構いません。だから注意書きには書きませんでした。
 でも「黎明」書いた時には波留さんが1月に目覚めたなんて事は明らかになってなかったので「秋」って設定にしちゃってるんですが(あの当時、波留さんとホロンは本編スタート時には1年程度付き合いがあるものだと思ってました。ホロンって設定上1歳ですし)、1月下旬って事で読み替えといて下さい。
 アニメが完結した今、本編に合わせてリライトすべきなのかなあ。でもリライト始めるとアレだけで終わりませんので(「動作確認」とかどうすんだよ一体)、皆様の脳内での置き換えに任せます。適当に解釈して下さい。投げ槍ですいません。

 絵板ではこんな風に色んなネタを描いて書いています。「お前のへたれ絵なんてどーでもいいんだよ」って人は、心眼でその辺は無視して(実質的には、ブラウザ設定で画像カットしたりして)文章だけでも読みに来ると面白いかもしれません。うちの小説読んでるような人はね。
 それではセカンドシーズン3話でお会いしましょう。2月中にはアップします。2月は短いから言ってもそんなに押してられません。

09/02/13

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