泡沫 - initialize -
 私の前から、波留の気配が消え去った。若い姿のアバターを使っていた彼の存在がふっと掻き消える。ログアウトともまた違った印象。どうやら一足先にあちらへと向かったらしい。
 彼は未だに「人間」である事を放棄していないはずだったが、迷わずあちらへと飛べたのか。人間のままあの領域に至る事が出来るのならば、やはり彼はこの地球上で唯一無二の特別な存在らしい。それこそ海――すなわち地球や世界に愛された存在。今まで自覚はなかっただろうが。
 それとも、導かれたのだろうか。親友の手に引かれるようにして。あの領域の外ならば、あの親友と触れ合ったとしても海の一部として同化する事はないはずだ。
 もっとも、彼がどちらの手段を使ったとしても、私にはどうでも良い事だった。彼らふたりが私の前から消えた事実こそが重要なのだから。
 これで私の役目は終わった。
 先に海底へ沈み、深層にて海との会話から答えを導き出し、その答えを私の元に至ったあの人物へと受け渡す。そして更に遥かな深層へと旅立つ彼を見送り、後に来たるべき探求者を待った。彼にも答えを渡すために。そしてその先へと導くために。
 溜息をつく。私は伏せていた瞼を上げた。
 細かな振動が室内を僅かに揺らし、私が腰掛けている椅子が震えていた。私は視線を前に向けていたが、その視界の中にぱらぱらと細かい埃のようなものが落ちて来ていて漂っている。
 天井が、崩壊しつつあった。大広間を形作っていた背景用アバターが、まずメタルの海に晒されている外壁部分から、徐々に幾何学模様へと解けてゆく。
 最早、タイムリミットだった。リアルの人間達が、全てのシステムメタルの停止に踏み切ったのだ。
 今、リアルでの海の異変を巻き起こしている元凶は、気象分子と言う名のナノマシンだ。それらは環境分子などの他のナノマシンとは違いメタルで制御されると言う特性があり、それ故にメタルからの接続が切られたならば徐々に崩壊してゆくはずだった。
 人間達は、生き残るために、それに賭けたのだ。今まで自分達が享受してきた利便性と普遍性を捨ててでも。
 しかし、私自身は、メタルに生きるAIだ。確かにリアルの海底に物質としてのサーバがあるとは言え、そのハードディスクに保持しているデータは私を形作るものからすれば微々たる物だ。それらのデータのみでは、今現在の「私」と言う存在は保てないだろう。あのサーバだけでは、私は単なるコンピュータと成り果てる。
 メタルが停止するのは、全ての気象分子が完全に崩壊する事になっている、24時間。そしてその範囲は全世界に及ぶ。
 今の私には、逃げ場はない。



 広いはずの部屋が暗くなってゆく。天井や壁のアバターが維持出来なくなり、メタルに露出する。そうなると、室内にあった調度品としてのアバターも侵食され始めていた。壁に掛けられていた肖像画や風景画が虫食い状態になってゆく。
 アバターを貪欲に食い尽くしてゆくメタルは普段の海の状態ではなく、暗闇だった。不特定多数の人間の思考を意味する水や泡は発生して来ない。電力を断たれた事でメタルはデータを維持出来なくなり、初期化されてゆく。そうなれば全てのデータは消失する。
 周囲が闇に包まれてゆく中、私は保持しているデータのいくつかを無造作に脳裏に展開した。これらは私が保持しているデータのほんの一部だ。これらは私のデータであり記憶である。しかし、そうでもないとも表現出来る。
 私は、生まれてこの方、手当たり次第に人間に接触し、彼らに問いかけ続けて来た。単なる電脳だった頃は会話で彼らから情報を引き出し、それがメタルに変わってからは会話しつつもその脳から記憶を抜き取る事も覚えた。ともかく彼ら人間の知識を、自分の知識へと取り込んで行ったのだ。
 結果的に、私が真に経験した記憶と、そうでない記憶とが、混同されてゆく。無意識のうちに私は記憶の並列化を行っている事になる。
 それは、彼らが到達するあの海の深層と、どう違うのだろう。海が掻き集めた、全ての知識と人間の意識が溶け合っている、あの場所と。
 そうこうしているうちに、私が展開していたデータの一部が断片化を始めていた。
 ああ、私は忘れてゆく。今まで築き上げてきたものが、壊れてゆく。最早それを止める事は出来ない。私は無力だ。



 破損してゆくデータの上に、最近取得したデータを開く。それは、このメタルの創始者たる彼の記憶と意識だった。これらも私の手にある以上――いや、このメタルにある以上、24時間のうちにいずれ消え去る。
 しかし、オリジナルの彼はあちらへ飛んでいるのだから、これらはもう不必要であるはずだった。これを失っても彼は困らない。メタルの彼の痕跡が全て消去されたとしても、海の深層に彼は居るのだから。
 私の記憶にも、彼のそれが刻まれていた。私は彼と接触し、記憶と知識を読み取った時、彼を理解し、同調し、同情した。彼はこの手段を取るしかなかったのだと、瞬時に理解した。
 私は彼の考えを追体験したのだ。彼が悩んだ果てに行った選択を、一瞬にして悟った。つまり、彼が生きてきた成果を、深層意識すらも掠め取ったのだ。それこそが私の能力であり、特性だった。
 私は、人間から取得した記憶から、その人間の考えや人生を感じ取る事が出来る。それらの記憶が全て私の中にあり、私と言う存在を形作る。
 私の本体があのサーバならば、メタルが初期化された後の私はどうなるのだろう。あのサーバに新規に生まれる私が「私」なのだろうか。今、ここに居て、消失しようとしている私は?
 そもそも海の深層に蓄えられた人の記憶と、私の中に在る記憶との違いは?深層にある記憶が誰かのものである以上、それらを掠め取り形成された私は、それらを用いて再構築は出来ないのでは?
 ――メタルが初期化されれば、君も久島も消えてしまう。
 不意に、私の脳裏に彼の言葉がよぎった。酷く美形ではないがそれなりに整った真面目な面持ちをした男の唇から、低くも凛々しい声で発せられたと言う記憶と共に。
 それは記憶の最上部に定着している台詞だから、どうやらまだまだ消失には至らないようだった。
 …ああ、彼は少しは私の事を気に掛けてくれたのか。私は彼の心に楔を打ち込む事が出来たのか。今更ながら、私はそんな、僅かな感動を覚えていた。
 彼は私個人には関心を抱いていないと思っていた。しかし、こんな事を言ってくれたのならば、これから消えてしまう私の事を覚えていてくれるだろうか。
 もっとも、彼はこれからあの深層に、親友と共に溶けるとするならば、私を覚えていてくれてもあまり意味がない事なのだが。それは彼の選択なのだから、仕方がない。



 私の周りはすっかり闇に包まれていた。そこを照らし出すようにほのかに輝くのは、崩壊してゆくデータの残滓だった。私はその場に「立っている」が、床は存在していない。浮遊感を感じる事すら出来ない――座標設定も消失しているのか。
 脳裏に展開したデータが消失してゆく。久島永一朗と言う名の、ひとりの人間の生きた証が。
 メタル開発の知識と履歴、彼が抱いていた海への視線と愛情。それらが断片となり、海を漂う事無く、只の無になってゆく。普通の人間やメタルダイバーが仮にこの光景を視認する事が出来たならば、とても悔しがる事だろう。何せ彼の知識は人類の財産だ。それが儚くも消失して往くのだから。それに何も手を打つ事が出来ないのだから。
 やがて、彼の記憶の根底にある、重要な部分にすら闇は至る。
 波留真理と言う名の男を見守り続けた記憶。彼の存在を愛し、悩み抜いた日々の記憶も、全て無に帰してゆく。
 波留。
 彼同様に、私も、その名を忘れたくはない。
 その名こそが、彼の存在こそが、私に夢を見させてくれたのだ。
 海と会話し、再び彼らと再会すると言う夢を。
 しかし、それは叶った。だとすれば、後は夢から醒めるだけなのだろうか。
 ――ああ、そうか。
 私は不意に、思い至った。
 今の私こそが、夢なのか。この飛沫――うたかたこそが、幻なのか。
 リアルの物言わぬサーバこそが本当の私で、今の私はそのサーバが長い夢を見ていただけなのかもしれない。このメタル初期化で、私はようやくその夢から醒めるのか。
 夢見せ屋たる私は、その永い夢に浸っていたのか。
 あたかも、50年間眠り続けた波留のように。



 その名が徐々に消えてゆく。
 あの親友の記憶から読み取り掠め取った、私には決して見せてくれなかった、波留の優しい笑顔が、私の記憶から薄れてゆく。
 そうだ。この笑顔は、私のものではない。久島永一朗のものだ。そんな事は判っている。
 しかし私はこれを、忘れたくはないのだ。波留の存在を。その全てを。掠め取ったものであったとしても。
 そんな衝動が、私の中に湧き上がって来ていた。
 覚悟は出来ていたはずなのに、往生際が悪い。しかし、海底から湧き上がる泡のように、発生してしまったものは仕方がない。
 76年後。再びハレーがこの地球に至れば、地球律は活性化する。そうなれば深層に溶けた各人の自意識を具現化させる事が出来るはずだった。
 私の自意識は、何処に存在するのだろう。今の私を、海底のサーバとしての本体から切り離せば、この初期化に付き合う事も――。
 ――それを人間は「ブレインダウン」と呼ぶのか。私はそれに、ようやく気付いた。サーバからこの私の意識を切り離すとすれば、それは人間にとっての肉体と意識の乖離症状と同様なのだ。
 普通の人間にとって、それは災厄だ。メタルに意識が流れてしまえば、意識は肉体に復帰出来ないのだから。しかし、メタルに意識を解放したいと願う人間が居たならば、それはむしろ福音だ。
 その福音を成したのが、久島永一朗そのひとだ。
 私にそれが出来るのか?彼がやったような事が出来るのか?彼は只の人間で、私はAIと言う大きな違いがあると言うのに。自意識が明確に存在する人間と、それが存在するかどうかは議論の余地があるAIと。
 そしてたとえ深層に至ったとしても、そこにある無数の記憶と意識との整合性はどうなる?私の自意識を構成する記憶は、様々な人間の記憶の集合体だ。その深層に存在する記憶すらをも掠め取って私は再構築出来ると言うのか?
 しかし、私は彼らに会いたい。
 このまま消えたくはない。
 再び、私は、夢を見たい。それは許されない事なのだろうか?
 ならば、果たして、私は深層に飛べ――…。



 瞼を伏せている訳ではないのに、目の前がすっと暗くなってゆく。薄れてゆく視界の隅で、私のアバターとしての身体が崩壊してゆくのを確認していた。そして私の記憶が――。
 私は――…これから、一体――。

 …私は、確信している。私には、魂が…――。



 「――ああ、なんて――きれいな、そら」
 エライザをどうにかして幸せにしたいサイトへようこそ。

 最終回での再登場は嬉しかったのですが、それが即消失リーチになってしまって…。
 彼女もどうにかして海の深層に至って欲しいなあ。久島とかと一緒に居て欲しいなあ。そんな事を考えながら、書いた一人称SSです。
 多分「メタリアルのブルー」最終回で、エライザは消失するんだと思います。だからそれを読む前に仕上げておきました。今週の週アスは火曜発売だから、ぎりぎり間に合いましたかね。長崎だと木曜だから許してくれ。
 久島AI話はもうちょっと待って下さい今週中には何とかしますから。ってAI話ばっかりじゃないか。そもそも久島AIってエライザの流用だしねえプログラム上は…。

 エンドカードでは普通に皆と混ざってプロレスソウタとホロンを煽ってたんで、ちょっとは希望は持ってますよ。
 でもアレって本当は、海の深層で生きてる場合はエライザは久島と小湊さん枠に収まってるべきなんだよな…。その辺がちょっと気になるけど、しかと。

 しかし、まさか「ミライノチカラ」で二次創作するとは思わなかったよ。ついていける人居るんだろーか。
 週アスでミライノチカラ読んでない方も、そのうち携帯サイトなりPCサイトなりでも追いつくと思うので(多分)、それを待てば理解出来ると思いますです。

08/10/07

[RD top] [SITE top]