午後のお茶会 - informal -
 日本の独立行政法人である電子産業理化学研究所――通称電理研は、研究職の各人がそれぞれに様々なプロジェクトを抱えていて多忙である。一応は同様の研究機関が隣接する埠頭近辺に事務所は置いているが、そこに所属職員全員が集う事など仕事始めか仕事納めにあるかないかと言う状況だった。
 政府機関やそれに順ずる機関となればまず形式を重んじるものだったが、この電理研はそれには当て嵌まらない。それは彼らが新設の機関である事が要因として大きいだろう。それも、あの不幸な事故の連鎖によって遷都せざるを得なくなって以降の新設機関なのである。彼らは抱える最先端技術と共に、新時代の象徴とも言える存在だった。
 所属職員達はその自覚を、各人に落差はあれど多少は持ち合わせている。いつも意識している訳ではないが、それだけの待遇をされていれば尚更だった。
 初夏の昼下がりに、久島永一朗はその埠頭の事務所に帰還していた。職員証を守衛に提示し、その人的セキュリティを通過した後に屋内に入る。
 どの研究機関においても、研究職の人間にとっては白衣が制服じみている。とは言え、流石に外出している際には白衣は羽織っていないものだった。久島も事務所に戻った時点では社会人としてのスーツ姿であり、事務所の敷地内に入った時点で自らのロッカーに立ち寄って白衣を取ってきている。
 その白衣をロッカーに収めたジャケットの代わりに羽織って廊下に出ると、すぐに地味な制服を着ている事務職の女性とすれ違った。その彼女に会釈されると、久島も事務的に応対しつつもそのまま歩みを進める。久島はそのまま自分達研究職に割り当てられた部署のオフィスへと向かう。
 久島は、朝からは自宅から事務所外の現場へと直行して、そこで案件に携わっていた。そしてそれが一段落した昼下がりの今、その現場を離れてオフィスへと戻る事にした。
 彼はこれから、オフィスに保持されている機密データと今日入手したデータと照らし合わせてのレポートを作成するつもりだった。
 鞄の中には電理研から貸与されたノートパソコンを所持しているが、そこに収まっているデータは限られている。彼らが扱っている研究の全てが政府主導であり、それらのデータには部署外持ち出し禁止とされているものも多いからである。
 実際にデータを扱う人間にとっては煩雑な事この上ないが、セキュリティ対策としては仕方のない話である。それを受け容れる他なかった。だから外部の現場で得たデータを持ち帰り、オフィスのみ閲覧可となっているデータと比較しようと、彼は戻ってきたのである。



 久島がオフィスの扉を引き開けた時には、その部屋には誰も居なかった。それは彼にとっても予想の範疇だった。形式的な勤務時間内だろうとオフィスに在籍する人員が殆ど居ないのが、電理研の日常である。まだまだ歴史は浅い職場ではあるが、その日常は既に定着しつつあった。
 そのまま久島は、自らに割り振られているデスクへと歩いてゆく。デスクの並び自体は一般的なオフィスそのものであり、そのデスクによって整頓されていたり乱雑であったりするのもその通りだった。いくらエリート集団と表現出来る部署であってもそこに所属するのは紛れもない生きた人間達だと言う事が、その多様なデスクの様相から窺い知る事が出来る。
 久島のデスクの状態は、前者に大きく振り切れている。彼にしてみれば、オフィスに常駐している訳でもなく絶対的な在籍時間が少ないと言うのに、それでいて何故散らかす事が出来るのかと思うのだ。
 そんな後者側のデスクを横目にしつつ、彼は自らのデスクに行き着いた。座席を引く事無く、まずデスクの上に革鞄を下ろす。
 彼はその鞄を開け、中からすぐにノートパソコンを取り出した。政府機関からの貸与品らしく型落ちながらも充分な性能を保持している機種のそれを、デスク備え付けのマルチタップ式コンセントに繋ぐ。
 パソコンの電源を入れるとディスプレイの黒に電光が走り起動してゆく。その微妙な光を横顔に当てつつ、久島はデスクの隅に引き込まれている回線ケーブルの先端を指先で摘み上げ、引いた。リールに巻き取られていたケーブルを引っ張り、ノートパソコンに接続する。その先には機密データを保存しているサーバがある。
 どのような機種であっても、パソコンが立ち上がるまでにはどうしてもある程度の時間を必要とする。久島はプログレスバーが行き来する画面をちらりと一瞥した後、興味を失ったようにそこから視線を外す。
 しかし他に目的があって視線を外した訳でもない。暇を持て余した風に彼がオフィスを見回すと、部屋の壁際に掲げられているホワイトボードが視界に入った。
 そのホワイトボードにはこのオフィスに所属する職員の名前がまず掲示されていて、その先には各々の予定が表として書き込まれている。無論久島もその中に含まれていて、今日の予定は彼自身が昨日のうちに記載していた。
 その各人の欄には、様々な筆跡が混在している。昨日の久島のように当人がオフィスに居る際に書き込むのが基本だが、出先や自宅から当人が寄越す連絡を受けた事務職や同僚が代筆する事も多いからである。
 そんな雑然としたホワイトボードの予定表には、今日も明日も全員が現場直行やら出張やらで外出している旨が記されていた。それもここではいつもの事である。久島はそれを確認しつつ、各人の欄を眺めてゆく。
 そして彼の視線は一番下の欄で静止する。そこにはこのオフィスでは最年少の職員である波留真理の名が記されていた。彼も他の職員達の大半同様に現在は外部の現場に入っている。
 しかしその欄には、連絡事項の他にも何やら落書きのように様々な筆跡で乱雑に書き込まれていた。流石に遠目からではそれらは読み取る事は出来ない。久島はデスクに手を軽く着いた後に身体を引き、ホワイトボードへと歩いてゆく。その正面へと立った。
 波留の欄のあちこちには、曰く「無理するなよ」とか「風邪は治りかけが肝心だからな」とか「きっちり休んだ分きっちり取り返せよ」とか、そんな感じの文句がそれぞれ筆跡を違えて書かれている。書いた人間の名前は併記されてはいないが、同じ職場で数ヶ月も働いていれば理解も出来た。
 それらの隅には「御心配お掛けしました」と大きく丸をつけられて返信めいた文章が記されていた。それは当人の筆跡だと久島には判っていた。そしてこの返信が書かれていると言う事は、今朝波留は現場に出向く前に一旦ここに顔を出していると推測出来る。
 現状の波留には、そう言った行為をするだけの前提が存在していた。久島はホワイトボードを眺めながら、そう思う。
 ――病欠明けだから、事務所に顔を出して挨拶出来る職員には挨拶をしに来たか。



 3日前。波留は初夏だと言うのに、見事に風邪を引いていた。
 それも突然だった。休む前日には特に調子を悪くした様子もなかったと言うのに、当日の朝に鼻声で病欠の電話連絡が来たと事務職が伝言を持ってきていた。
 それから3日間、波留は自宅でしっかり休息を取る事になる。インフルエンザなどのウィルス性ではなく、体調を崩して罹患する単純な風邪だった。それ故に治療するためにはまず身体を休める事が重要であり、彼はそのためにきっちり寝込む羽目になった。
 それも、電理研の現状は多忙ではあるがそれ以上の状況ではなく、彼独りが休んでも業務は充分にカバー出来た事が大きい。彼は、ついでに使う暇もない有給をここぞとばかりに消化してしまっていた。そして遂に熱も下がり身体の状態も通常に戻ったとの事で、事務員宛に「明日には出て来れます」と連絡が来たのが昨日の夕方のはずだった。
 ――体力ありそうなくせに、風邪は引くものなんだな。あいつも。
 そう言う事情を脳内で反芻しつつ、久島はそんな感想を心中で漏らしていた。
 波留の場合は電理研招聘に当たっては海外から日本に戻ってきたためにその疲れもあったのかもしれないが、引っ越してきたのは新年度に合わせての春先であり数ヶ月前である。今更気が抜けたのだろうかと久島は訝しく思う。
 ふと気が向いて、久島はホワイトボードに置かれている筆記用の黒色水性マーカーを手に取った。ボードの大きさに対応した太さとなっているそのマーカーのキャップを外す。外したキャップを左手の中で弄びながら、彼はボードを見上げた。右手でマーカーを持ちつつも指で挟みこんだまま揺らす。
 波留の欄は確かに各人が勝手に復帰祝いの文句を残しているが、まだ何かを書くスペースは残されている。その付近を久島は眺めていたが、自分ではなかなか書き込もうとはしなかった。
 置かれている各種サーバの熱暴走対策のためか、オフィスの冷房は無人状態であっても低温で保たれている。今まで外部に居た久島もそれを浴びているうちに体温が下がり、長袖シャツに白衣を纏っていても涼しさを覚え始めていた。
 そして冷やされた空気の流れがキャップを取り払われた水性マーカーにも到達しており、そこからアルコールめいた匂いが冷房に乗って流れていた。久島はそれを鼻腔に感じ、顔を顰めた。



「――久島さん。戻って来てたんですか」
 そんな暇潰しと表現するにはあまりにも無為な時間を久島が過ごしていると、オフィスの入口から朗らかな声が響いてきた。久島はその声に身体を向ける。
 そこには久島同様に白衣を羽織り、首には職員証を下げた青年が立っていた。久島と違うのは、彼は社会人の象徴たるスーツを着ていない。白衣の下に着ているのは、黒いシャツとスラックスだった。衣服は一応地味な色合いで合わせてはいるが、肩提げ鞄と相まって大学生の研究生めいた印象が濃い。
「波留。君も戻っていたのか」
 久島は彼にそう呼び掛けていた。波留は彼よりも2つ年下と言う事もあるが、その服装や元々童顔の類に属する顔立ちから、それ以上の差を感じてしまう。
「ええ」
 そんな考えをよそに、波留は室内に入ってくる。肩提げ鞄のストラップを身体に引き寄せ、歩きながらもデスクなどに引っ掛からないようにしていた。
 その鞄は大きく膨らんでいるが、出先から戻ってきた所ならば仕事上その容量過剰な状態も当然だと久島にも判っていた。おそらくは持ち歩いている素材や資料がその大半を占めているはずだった。無論、個人に支給されているノートパソコンも重要な仕事道具であり、そこにどうにか収まっているはずである。
 歩いてきた波留は久島の隣に立つ。久島が手にしているマーカーに視線を向けた後、ホワイトボードを見やった。そこに広がる落書きに、目を細める。
「――…皆さんにも本当に御心配をお掛けして」
 波留の口から放たれたそんなしみじみとした言葉を隣から聴きつつ、久島は手元を見た。そこに握られているマーカーの黒い先端とキャップに視線を落とした。そして手を動かし、それらを嵌め込む。
 結局ボードには何も書かないまま、久島はマーカーをボードへと戻した。その最中に顔を向けずに背後の波留へと淡々とした台詞を投げ掛ける。
「…まあ、元気になったようで良かったじゃないか」
「お陰様で」
 波留を見ている訳ではないが、その声の調子から久島には年下の同僚が照れ笑いのような表情を浮かべているのだろうと推測出来た。確かに風邪での数日間の病欠など、大人の男にとってみれば気恥ずかしい事態には違いないだろう。
 そこで、ふと久島は思い出したように鞄に手を伸ばした。その内部を探る。彼は鞄の内ポケットに右手を突っ込み、その手を引き出していた。波留に対してそれを差し出す。
「――ほら」
 久島はそう言い、その手を開いた。その掌の上には、鍵が1本収まっている。それはキーホルダーも何もつけられていない、剥き出しのままの鍵だった。
 波留はその掌に視線を落とす。それが何であるか、何処の鍵であるのか思い至ると、彼は右手を頭にやった。指で癖っ毛の髪を掻き分け、頭を掻く。
「…あ、わざわざすいません」
「君の部屋の鍵だからな。早く返却しないと色々まずいだろう」
 久島は淡々とそう告げていた。その手を更に波留に差し出す。まるで突き付けるような態度だった。
「合鍵だから特には困りませんよ」
「とは言え、他人に預けていいものでもあるまい」
「まあ、そうですね」
 波留は微笑んで頷いた。右手を伸ばし、久島の掌の上からその鍵を摘み上げた。細い金属部を親指と人差し指で触れ、凹凸を指の腹に馴染ませて持ち上げる。
 久島はその動作を視線で追う。掌に置かれていた僅かに冷たい金属片がその存在を失って行った。
 
 
 
 そんな会話と動作を交わした後、スニーカーの靴底が立てる音が久島から遠ざかってゆく。波留は衣服も大学生めいていれば靴もその通りの印象である。
 久島がマーカーを戻してホワイトボードから振り返ると、波留が自分のデスクの前に立っているのがその視界に入る。重そうな鞄をそのデスクの上に乗せ、肩に掛かった紐が緩んでいた。波留はその紐を掴んで下ろし、完全に鞄をデスクに預ける。
 波留のデスクの上は、やや雑然とした方向に針が振れている。しかしそれは唐突に病欠した事と、その間に他者が様々な書類やメモを寄越してきていた事も要因だった。朝に出勤した際に少しは整理していたが、全てではなかった。
 互いのデスクは隣り合わせではないが、オフィス自体が少人数制のために遠い訳でもない。久島は波留の向こうに自分のデスクを見出す。そこに開かれて置かれたままの古ぼけたノートパソコンのモニタは、既に待機状態になっていた。
 久島自身もそれを遠目で確認し、自分の仕事に戻る事とした。白衣のポケットに両手を突っ込み、ホワイトボードの前から彼も歩き出す。
 とりあえず数日振りに波留との挨拶を交わした事で、彼の気は済んでいた。現状は酷く多忙と言う訳ではないが、暇と言う訳でもない。定時に近い時間帯に帰宅するためには、早急にレポートを書き上げる必要があった。
 久島がデスクに戻る頃に、行き違うように波留は自らのデスクを離れた。彼の場合は特にノートパソコンを準備すると言う事もせず、鞄を開いてもいない。久島は席に座る際にちらりと歩み行く波留を見やったが、すぐに画面に視線を落とす。キーボードに両手を置き、操作を開始していた。
 モニタが発する光を顔に当てつつ、久島はいくつかのデータファイルを呼び出して開く。同時にエディタを準備して報告書の作成に取り掛かり始めた。彼の意識の狭間では波留が立てる微かな生活音が漂って来ていたが、全く気には留めていなかった。
 そこに、波留が穏やかに呼び掛けて来た。
「――久島さん。お昼は食べてないんでしょう?」
 その声に久島の手が止まる。キーボードに手を置いたまま、視線のみを上げた。部屋の向こう側に居る波留を見やる。
「…ああ。昼はあまり食べる気がしないからな」
 久島は淡々と答えていた。それはいつも通りの話であり、このオフィスの職員達には周知の事実である。
 彼は滅多に昼食を摂らず、稀に付き合いで連れ立って食事に出る際にも紅茶などを注文して終わりだった。当初は職員達もその意外なまでの食の細さに驚いていたが、特に健康上の問題も見受けられないために次第に構わず受け容れるようになっている。久島がオフィスでサプリメントの類を摂っているのをたまに職員が目撃し、彼なりに栄養補給はなされていると把握されているのもある。
「なら、丁度良かったです」
 波留のそんな声がした。彼はオフィスの片隅に置かれている小型の冷蔵庫の前に屈み込んでいる。その扉を開け、顔に冷気を当てて髪を僅かにそよがせつつ、彼は冷蔵庫の中に手を突っ込んでいた。そして何かを引き寄せる。
「一緒に食べませんか?」
 にこにこ微笑んで波留が久島に対して掲げたものは、ギンガムチェックのマットに包まれた直方体の物体だった。その形状と様相からして、おそらくはランチボックスの類だろう。
「………は?」
 久島は唖然とした。顔をモニタの前からずらし、波留を見る。彼にとっても波留が掲げる物体の正体は想像がついていた。だからこそ、そんな声を上げてしまう。
 そんな年上の同僚を尻目に、波留はランチボックス片手に立ち上がった。空いた片手で冷蔵庫の扉を閉める。軽い音を立てて閉まる扉を背後に、波留はデスクへと歩みを進めた。彼は自分のデスクではなく、久島の方へと向かう。
 久島のデスクの上は片付けられており、中央部をノートパソコンに占領されていてもその脇に何かを置く事は充分に可能だった。波留はそのスペースに、手にした物体を置く。
 ギンガムチェックのマットを解くと、果たしてそこには編まれた籠をモチーフとしたランチボックスが現れた。微笑んだままの波留がその蓋を開けると、その内部にはサンドイッチが色々と収まっていた。
 そのランチボックスの大きさからも内容物のサンドイッチの量からも、確かに一人前には多い。しかし、大人の男ふたりには若干足りないと思われる量しか収まっていなかった。
「仕事しながら摘めるものを作って来ましたんで、適当に好みの奴を食べて下さい」
 言いながら波留は蓋を傍らに置く。それに久島は視線を向けた。しかし彼の中から疑問は一切消えない。眉を寄せた。
「これは…一体どう言うつもりだ?」
 相変わらずキーボードから両手を上げる事もなく、久島は問い掛けるような台詞を発していた。レポートから最早彼の意識は離れている。
「朝に出勤しても久島さんと会えるとは限りませんし、かと言って事務職の子に預けても久島さんが昼に戻るとも限りませんし。なら自分の弁当を少し多めに作っておいて、会えたら御一緒しようかなと」
 はにかみ笑いを浮かべて波留はそんな説明を述べていた。久島はそれを黙って聴いている。波留が言うには、どうやらこの弁当はそもそも久島に寄越すために作ってきているらしい。それは直接的には表現されていないが、久島には行間から読み取る事が可能だった。
 彼はそれを理解はしたが納得は出来ていない。何故自分に寄越すために弁当を作って来なければならないのか、そこが久島には全く判らなかった。
 しかし、彼の口から出たのはまた別の疑問である。
「――もう昼も遅いのに、君はまだ食べていなかったのか?」
 波留は久島とは違い、昼に普通に食事を摂る人種である。だからこその研究職とは思えない筋肉に引き締まった肉体なのだろうと、久島は思っている。
 その肉体の維持のために、どうやら久島とは別の意味で食事を管理している面も見受けられている。近辺で外食するにせよ出来る限り栄養バランスに気を配ったメニューを選択しているのを、久島も見かけていた。
 そんな波留だと言うのに、昼食の時間が過ぎ去ってもまだ食事を摂っていないのはおかしいと思うのだ。しかし弁当をこのオフィスに置き去りにしているのならば、出先で何か軽く腹に入れて来たのかもしれない――そんな事を考える。
「久々に出勤すると、仕事が溜まってて忙しかったんですよ」
 その問いに対し、波留は照れ笑いを浮かべてそう答えた。その台詞からは婉曲に「まだ食事をしていない」と、久島に伝わってくる。それに久島は笑わないまま、波留を見上げるばかりだった。



 その会話を経た後に、波留は久島に軽く会釈する。そして彼は再びデスクの前から去り、オフィスの片隅に置かれた冷蔵庫の隣に位置する棚へと向かった。
 その棚には様々なマグカップやティーカップのセットが収められており、別の列には電動ケトルやポット、紅茶のパックやインスタントコーヒーの瓶などが並んでいる。それはオフィスに戻った職員がセルフサービスで各々の飲物を調達するための場だった。隣にある冷蔵庫には各人が持ち寄った弁当や差し入れなどが収められており、棚と合わせて簡易キッチンの様相を呈している。そう言う場所だった。
 波留はその棚のガラス戸を引いて開け、その中を探る。軽く手を彷徨わせた挙句に、黒いマグカップを取り出していた。それをオフィスの向こう側に掲げて見せる。
「久島さんのカップはこれでしたよね?」
 その声に、久島は視線を向ける。その指摘は事実だったので、肯定のためにゆっくりと頷いた。しかし何処か戸惑いは隠せない。
 そんな彼に波留は微笑んで頷いた。人好きのする笑顔がそこにある。
「紅茶淹れますから、先に何か摘んでおいて下さい」
 波留の宣言に、久島は改めて彼を見た。波留は微笑んだ後にカップを棚の上に下ろし、再び棚に手を突っ込む。そこから紅茶を淹れる上で必要な道具を持ち出してゆく。
 その流れるような動きをしばし眺めた後に、久島は視線を戻す。パソコンのモニタに映し出されている彼の仕事を見た。しかし、どうしても意識がそちらに戻らない。彼は食には興味はないが、紅茶には興味津々だからである。
 それが淹れられる間、久島は手持ち無沙汰だった。その印象のままに開かれたランチボックスを眺めやる。
 そこに収められた中身のサンドイッチの大きさは小振りであり、その分詰められた数は多い。おそらく多少揺らしても中身が偏る事がない密度だった。
 それぞれに挟まれている具材は様々なものであるようだった。その中で黄色い具材が覗いているサンドイッチに、何気なく久島の興味が惹かれる。彼はそれに手を伸ばし、摘み上げた。どうやらゆで卵を刻みマヨネーズを中心とした調味料で和えた代物――所謂卵サンドイッチだった。
 それを摘み上げた久島は、値踏みするように顔の前に持ってくる。すぐに口にはしない。摘み上げた指には冷たさが伝わってくる。おそらくはこのランチボックスは冷蔵庫には波留が出勤した朝から収められており、その間パンと具材はしっかりと冷やされていたのだろう。
 しかし久島が気付いたのはそればかりではない。それを向こう側に問い掛ける。
「――サンドイッチ用のパンを使っているのか?」
「はい」
 電動ケトルにミネラルウォーターのボトルから水が注がれる。その音を背景に、波留は穏やかに返事をしていた。
 久島の指摘の通り、サンドイッチに使われている食パンは薄い。料理に興味がない彼にも、それは普通のパンを使ったサンドイッチではないと気付いていた。
「良く自宅にあったな。サンドイッチは良く作るのか?」
「手軽な料理ではありますが、食材を特別にストックしておくものでもないですね」
「なら、今日のためにわざわざ買ったのか」
「昨日の昼には体調も回復してましたし、スーパーに買い出しに行ったんですよ。寝込んでるうちに色々と不足したものもありましたし。サンドイッチの材料も、そのついでです」
 そんな会話を交わしつつ、波留は電動ケトルをセットした。そこでお湯を沸かしつつ、ティーバッグの箱を手に取る。手軽なインスタントではあるが、何処かに違いを見出せるのか、彼はそのバッグの包みを選別していた。その脇には黒と青のマグカップが置かれている。
 久島はそんな様子を遠目で眺めていたが、そこに不意に波留が振り返る。選び終わったティーバッグの包みをふたつ摘んだまま、笑顔を浮かべている。
「――それまではしっかり寝込んでいたものですから、久島さんからの差し入れには凄く助かりました。あの時うどん作って頂いた後の余りとか、箱ティッシュとか」
「………それはどう致しまして」
 波留からの礼に対し、久島はそれだけ答えていた。視線を落とす。にこやかな笑顔を送られると、何故だか居た堪れない気分に陥ったからである。自分の事ながら、今の心境をどう説明していいのか理解出来ない。
 そんな心境の中、視界に摘み上げた卵サンドイッチの一片が入る。久島はそれを誤魔化すように口に持って行き、一口齧った。そのまま噛み砕く。冷蔵庫できちんと冷やされていた具材とパンとか口の中で上手く合わさる。調味料とも相まっていい味わいが感じられた。
 食に興味はなくとも、そこそこの料理を口にすれば身体は反応するものである。彼は僅かに空腹を覚えた。



「――もうすぐ紅茶が入りますからね」
 向こうからそんな声がすると、それを追うように久島の元には紅茶のふんわりとした香りが漂ってきた。彼は一口齧り付いたサンドイッチから顔を上げ、棚の方へと視線を向けた。
 微笑む白衣の男の合間から垣間見える黒のマグカップには、ティーバッグの紐が目立って見えた。無造作に只ティーバッグで紅茶を淹れているだけに見えるのに、波留が淹れる紅茶はどうしてこうも香り高いのだろうと久島はいつも思う。
「何、摘みました?」
 波留はそう訊いて来た。彼からも久島がサンドイッチに口をつけた事は把握出来ているのだろう。
 訊かれた久島は、思わず手元を見やる。歯型がくっきりとついた断面を凝視した。そこには卵の白身が程好く切り刻まれているのが覗いている。
「…卵だが」
 久島は手元に見たままを答えた。そして口の中に残る味わいを舌で舐め取る。
「お好きですか?」
「いや…特に好悪はない。只、これが目に付いたから拘りなく手に取った」
 彼は戸惑うように答えていた。流石に飲物なしでサンドイッチを食しては、口の中がぱさついた感がする。僅かに沸き上がって来た食欲により唾液も余計に分泌されたらしく、それを頼りに口の中の物を飲み込む。それから口許を手の甲で拭った。
 そこに、黒いマグカップが差し出されてきた。その中には赤い液体がなみなみと注がれた状態で揺れている。その水面からは、芳醇と表現しても差し支えがない香りが漂って来ていた。
 久島が顔を上げると、そこには波留が立っている。やってきた黒髪の青年は右手に持つ黒いマグカップを久島に差し出し、左手には青いマグカップを持っていた。
 久島はその黒いマグカップを受け取る。温かい上昇気流を顎に当てた。至近距離からのダージリンの香りが湯気と共に彼に伝わる。それをまず味わった後に、彼はマグカップに唇をつけた。カップは良く暖まっており、その熱を感じる。
 次いでカップを傾けてそこに湛えられている液体を口に含む。食物を口にした後に水分を得て、口の中が解れる心地がした。そして熱と共に香りと味が口の中に広がる。
 紅茶の味はしっかりとしており、それでも濃さは丁度良く苦い程ではない。それに、相変わらず絶妙な味わいの紅茶を淹れるものだと、久島は感心してしまう。
「――立ったままで失礼ですが、俺も頂きますね」
 そんな声が久島の上からする。そして手がランチボックスに伸びてきて、サンドイッチをひとつ摘み上げて行った。そのままひょいと口許に持って行き、数口齧って全てを口の中に収めてしまう。
「…まあ、こんなもんかなあ…」
 噛み下しつつ、波留は呟くように言う。青いマグカップを口許に寄せ、その紅茶を啜った。
 その様子を見上げつつ、久島も気付いたように手元に残った卵サンドイッチを口に導く。サンドイッチは小振りなために、それで彼の口の中に全て収まっていた。掌でサンドイッチを押し込んだ後に、マグカップに口をつけて紅茶を飲む。パンに暖かな液体が染み込むのを感じた。
 ゆっくりと味わってゆく中、席に着いている久島の傍ではランチボックスに手が伸びている。料理の供給主はペース早く、もうひとつのサンドイッチを口の中に放り込んでいた。
 久島はそれを眺めやりつつも、普通に食事を摂る人間ならこの時間帯となっては腹も減っているのだろうと思う。それに付き合っている自分も、何処となく食欲を感じていた。無言で彼も手を伸ばし、ランチボックス内のサンドイッチを摘む。やはりそこには拘りはなく、丁度指先に当たった種類のものを摘み上げただけだった。
 口許に導き齧ると、野菜とハムの感触がした。どうやらそう言うサンドイッチを選び取ったのだろうと思いつつ、彼はそのまま瑞々しい野菜の歯ざわりを感じ取っていた。噛み下しつつ、たまに紅茶に口をつける。
 その間に特に会話を交わす事もしない。食物を口に入れたまま話すのも行儀が悪いからである。冷房が効いた室内で温かい紅茶を飲みながら食事を摂る。――こんな状況は一体何時以来だろう。久島はそんな事を思った。



「――あら、波留君と久島君」
 そんな状況下にある昼下がりのオフィスに、新たな人物が顔を見せていた。その人物はやはり鞄片手の白衣姿ではあるが、波留と久島と違い、女性だった。彼女の茶髪のショートカットは快活そうな印象を与える。
 彼女の姿を認め、波留は身体をその方へと向けた。満面の笑みを彼女に表す。手にしていたサンドイッチを食べ終わって空いた右手を挙げる。入室してきた女性に挨拶をして見せた。
「――洋子さん。お久し振りです」
「すっかり元気になったみたいね。良かったわ」
 笑顔で波留に話し掛けてくる彼女は蒼井洋子と言う名の女性であり、この電理研に所属する研究職の一員だった。彼女もまた朝から外部に出ていたのだが、この昼下がりになって戻ってきたと言う訳である。
 履いているヒールの音を立てて洋子はオフィスの中を進んでくる。波留が横に立つ久島のデスクへと向かってきた。彼女は、そこに広がる光景に視線を巡らせた。
 デスクに置かれたノートパソコンはデスクの印象と一致しているが、その傍に鎮座しているギンガムチェックのマットを敷かれた上のランチボックスの存在は若干ずれている。このデスクは波留ではなく久島の席なのだから、尚更だった。
 その中に収まっているサンドイッチの群体は所々に穴が空いており、それはどうやらいくつか取り上げられた跡らしいと後発の洋子にも理解が出来た。彼女はその光景から受けた第一印象をそのまま口にしていた。
「――…何、ふたりでお茶会?」
「そんなようなものですかね」
 洋子のその表現に、席の久島は一瞬口篭るが、傍らに立つ波留は笑顔のままに平然とそう答えていた。確かに紅茶にサンドイッチなのだから、アフタヌーンティーと言われても仕方のない状態ではある。
「昼下がりに優雅でいいわね」
 自ら抱いた印象を波留に普通に流され、洋子はそんな感想を漏らした。そして薄く化粧した顔に微笑を浮かべた。
 その間、久島は黙り、目を伏せる。マグカップに口をつけた。特に無視を決め込むと言う訳でもないが、ふたりに会話を任せる事にした。彼女の笑顔を視界に入れると、どうにも落ち着かない心境になってしまう。
 そこに波留は笑顔でマグカップを掲げる。洋子に呼び掛けた。
「洋子さんもお茶会、一緒にどうですか?」
 その誘いに、洋子はきょとんとした。目の前のふたりを交互に眺めた後に、頬に手を当てて問う。
「あら…ここに私が混ざっていいの?」
「いいですよ。まだまだサンドイッチもありますし。――久島さんも構いませんよね?」
 波留に唐突に話を振られ、久島は我に返った。マグカップに口をつけたまま、視線のみを上げる。傍に立つ男女が彼を見下ろしており、その表情はふたりともが笑顔だった。
 それを把握した後、久島は視線を再び落とす。マグカップに半ばまで残っている紅茶の水面を眺め、僅かに啜る。その間にも、彼は両脇から注がれる視線を感じていた。何処か居心地が悪く、開かれたノートパソコンのモニタを見た。
「――…ああ。君の料理だ。私が同席者を拒否する筋合いはない」
 久島としては、そう答える他はなかった。それは彼が思うそのままの気持ちなのだが、その一端には確実に戸惑いがある。
 ――これは一体どういう状況だと思ってしまうのだ。彼はこう言う状況にはあまり慣れていない。
 そんな彼に、波留は頷いた。デスクに手を当て、自らのマグカップを下ろした。久島のデスクの脇を更に拝借する格好になる。その、ことりと言う音に久島は視線を向ける。しかし咎める気分にはならなかった。
 手ぶらになった波留は、デスクの前から一歩踏み出す。軽く手を振り、笑顔のままに洋子に話を向けた。
「――じゃあ、洋子さんにもお茶を淹れて来ますね。何がいいですか?」
「そうねえ…――」
 その言葉に、洋子は首を傾げた。頬に手を当てたまま考え込む仕草を見せるが、それもすぐに終わる。その間10数秒と言うほぼ即決と表現しても差し支えがない思考の後に、彼女は決断していた。
「…ふたりとも紅茶だから、私はコーヒーにしようかしら。構わない?」
 洋子の選択を訊き、波留は頷く。その指示を受けて再び棚へと足を向けた。
 事前に紅茶を淹れた事で既にお湯は沸いており、コーヒーもインスタントで揃っている。この女性を然程待たせる事はないだろうと言う結論に、彼もすぐに至った。
「判りました。インスタントだから、それなりの味にしかなりませんが」
「波留君が淹れると、それでもやっぱり美味しいのよ。――ねえ、久島君?」
 台詞の最後に、洋子は顔を俯かせた。悪戯っぽい笑みを浮かべ、デスクに着いている青年に話を向ける。
 そこで久島は、またしても唐突に話を振られてしまった格好になる。洋子からの視線を受けつつも彼女の方を見上げる事はしない。只、マグカップに口をつけたまま固まっていた。
「…ああ。そうだな」
 今回もまたやはり彼はそう首肯する他に、選択肢を見出せなかった。これもやはり彼が思った通りの言葉なのだが、戸惑いがあるのも先程と同様である。
 久島の目の前には、ノートパソコンがある。場を持て余した挙句、彼はそこに開かれているデータ画面をスクロールさせた。表示されている情報を瞳に映す。このデータを処理しなければならないと思いつつ、やはり同席しているふたりの存在が気になる。
 そして口に紅茶をつけた。唇に未だ熱を保った液体を感じる。波留が淹れた紅茶はまだまだ旨味を保持したままだった。普段の久島ならば、それを味わう事を楽しむだろう。しかし、今はどうにもそんな気分にはなれなかった。
 彼をよそに、波留は洋子にコーヒーに入れる砂糖やミルクの加減を尋ねている。しかし尋ねられた方はブラックを求め、波留はそれを了承していた。



 淹れているのがコーヒーであっても、やはりその香りは空調に乗って漂ってくる。香りの種類が茶葉から豆に変わっただけである。
 久島はコーヒーはあまり好みではないが、その匂いが香ばしく良いものである事は否定はしない。苦い液体を口にする気はないが、香りを嗅ぐだけならば良いものと言えた。
 それも、淹れる相手の技術に拠ると、彼にも良く判っていた。そして彼にとっては行使される技術以上に、波留が淹れたと言う事実こそが最も重要であると、自分の事ながら理解していた。
「――サンドイッチ、私も貰うわね。久島君」
「…どうぞ」
 そこで、上から掛けられる洋子の声に、久島は静かに頷いた。しかし彼女の方を向かない。只、紅茶を啜っていた。目の前を通り過ぎる女性の細くしなやかな腕を視界に素通しにする。
 洋子はサンドイッチをひとつ摘み上げた。ちらりと断面に視線を送った後に、ぱくりと口にする。三角形の先端を小さな口に送り込み、噛み取った。
「――…あら。波留君って料理も上手いのね。羨ましいわ」
 しばしサンドイッチを味わった後に、彼女はそんな感想を漏らしていた。しかしそれを耳にした久島はその言葉尻を捕まえる事はしない。それは単なる独り言と捉えたし、彼としてはそう考えたかった。
 その洋子の感想を否定するつもりは久島にはない。彼はむしろそれと同意見を持っていた。そして洋子と意見を同じくした事により彼は、波留のこのサンドイッチは普遍的な旨さを誇っているのだと再認識するに至っている。平均点以上の味が、そこに封じ込められているのだろう。
 確かに料理は上手いに越した事はないだろう。食事に興味が殆どない彼であっても、それは認めている。どんな人間でもいざ何かを食するとなれば、やはり味がいい物を食べたいのが人情であり、久島もその御多分には漏れていないのだから。
 隣から声が返って来ないと見ると、洋子は微笑む。久島の隣のデスクの上を軽く払い、そこにちょこんと腰を寄り掛からせた。久島の隣のデスクはやや乱雑な方向に振れていたが、洋子はそれを気にしていない。白衣とロングのタイトスカートに覆われた小さな腰がデスクの縁に触れ、体重を預けていた。
 身体の位置を落ち着け、洋子は食べかけのサンドイッチを顔の前に掲げる。値踏みするように見つめ、若干唇を尖らせて言う。
「こうして美味しいサンドイッチを用意されて、お茶も淹れて貰って、一緒にお茶会して、本当にいいなー。久島君が羨ましいわ」
「…今は、君も波留に同様の事をして貰ってるじゃないか」
 洋子の言葉は、何らかの不満から発せられたものなのだろうか。久島としてはそこが良く判らないが、ノートパソコンを片手で操作しつつ淡々とそう答えていた。今日得たデータとこのオフィスに保存されていたデータとを照らし合わせて状況を確認する。彼の意識の大半は、今から執筆すべきレポートの方へと向かっていた。
 隣に寄り掛かる洋子は、久島が見ているモニタをちらりと見下ろしていた。彼女にとってもそれは専門であり、表示されているデータ類を理解する事が出来ていた。
 洋子は研究へ思考を巡らせつつ、手にしたサンドイッチを一口一口齧り咀嚼してゆく。そんな風にして彼女はしばし沈黙していたが、やがて再び喋るために口を開いた。指先に最後の一片を残したまま、視点をそこに落として言う。
「――でも、これは波留君が久島君のために準備されていたサンドイッチでしょう?」
「そうらしいな。波留は、一体どういうつもりなのやら…」
 久島は独り言のような声量でそう言った。ぼやきとも取れるような口調である。その間にもキーボードを叩くと微かな音が室内に響く。
 そんな彼の言動に、洋子は軽く首を傾げた。きょとんとする。摘んだ一片を顔の横に持ってきたままの状態で、意外そうな声を上げた。
「…え、まさか久島君…あなた、それが判ってないの?」
「…君には判るのか?」
 明らかな意外そうな声に対して、淡々とした調子ながらもそこに僅かに意外さを込めた声が返ってくる。それに、洋子は溜息をついた。大きく肩を揺らして嘆息する。
 それから彼女は口の中にサンドイッチの断片を押し込み、噛み砕く。出来のいい手製のサンドイッチらしく、具材は先端まできちんと挟み込まれており、彼女の口内でそれらが合わさり良い味を醸し出していた。
 洋子としては100点満点をつけたい気分のサンドイッチを味わいつつ、彼女は隣に視点を落とす。そこでは相変わらずノートパソコンをいじっている久島の姿があった。しかし左手はマグカップに伸びたままであり、本腰を入れて報告書の作成には至っていない様子である。
 それを眺めつつ、彼女は今までサンドイッチを摘んでいた指をぺろりと舐めた。そしてその手を下方に伸ばす。久島が開いているノートパソコンの上蓋に、その手をそっと置いた。上部を掴むように指を曲げる。
 久島は自らの視界に、綺麗に切り揃えられた爪を持つ女性の指が入ってくるのを見ていた。薄い紅色のマニキュアでコーティングされ保護されているその爪が、モニタの上部をなぞる。軽く体重が移動されたらしく、モニタが僅かに傾いた。
 その仕草に彼は気を取られる。しかし、すぐに何かを言おうとした。
 そこに、洋子から言葉が降り注いでくる。
「――…あの時私が久島君にアドバイスしてる事、この分じゃ波留君には伝えてないんでしょ?」



「…あ」
 その指摘に、久島は思わず顔を上げる。洋子の顔をまじまじと見てしまっていた。
 彼は、その件について、すっかり忘れていた事を思い出していた。そして波留がどうしてこのような事をしてくるのか、その動機もようやく掴めた心地になる。彼はその気持ちを抱え、マグカップを下ろす。ノートパソコンの脇に置いた。
「すまない、蒼井君。どうやら私は手柄を独り占めにしてしまったようだ」
 そんな言葉と共に、洋子は久島に軽くではあるが頭を下げられる。その態度に、洋子はモニタに掛けていた手をそっと持ち上げた。そのまま胸の前まで持って来て、軽く横に振る。――「手柄」を「独り占め」にしている自覚はある訳だ。彼女の脳裏にそんな感情が走る。
「別に構わないわよ。同じ職場に所属してる以上、機会はこれで終わる訳じゃないし、こうやって御相伴にも預れたし」
 久島は洋子のその言葉に、僅かではあるが表情を変化させていた。彼はその女性の言動に何らかの感情を見出していた。波留ばかりか、洋子のこの言動の意味も把握出来たような気がしていた。
 その自らの直感に従い、久島は何かを言おうとする。そこに、今まで席を外していた男の声が届いた。
「――はい、洋子さん。御注文のコーヒーが入りましたよ」
 その台詞と共に、濃厚な香りが久島と洋子の傍で漂って来ている。その発生源には、波留が白いマグカップを右手に引っ掛けて立っていた。その内部には黒色の液体が濃い色合いを保ちたゆたっている。
「ありがとう、波留君」
 洋子ははにかむように笑い、波留が差し出す自らのマグカップを受け取った。両手で支えるように持ち、波留を上目遣いに見やる。カップから立ち昇る湯気とそれに伴う香気を顔に感じた後に、そっと唇をカップに寄せた。軽く口に液体を含む。
「…波留君の淹れるコーヒーやお茶って、どうしてこう美味しいのかしらね」
 一口飲んだ後に、洋子はそんな感想を伝えていた。それに波留は照れた風に微笑む。彼はデスクに視線を落とし、そこに置きっ放しにしていた自らの青色のマグカップに手を伸ばした。蔓に指を絡め、持ち上げる。
「気を遣うべきは淹れる湯温と事前にカップを暖めておく温度でしょうか?でも大した事はやってなくて、あくまでも勘ですよ」
「勘でここまで出来るのが羨ましいのよ。お茶汲み指南を求めてくる事務職の子からも良く言われるでしょ?」
「そうですね…」
 洋子の感嘆交じりの声に、波留は苦笑めいた微笑みを深めてゆく。それは謙遜なのだろうが、それを眺めている久島には悪い気分を一切もたらさない。過度な卑下には思えなかった。
 久島の隣のデスクに腰を寄り掛からせたまま、洋子はコーヒーに口をつける。適度な苦味を口の中に漂わせつつ、彼女は波留に話を向けた。
「――お見舞いに来た久島君にうどん作って貰ったのよね?」
 その言葉に、波留は顔を上げた。自らのマグカップに残った紅茶から口を離す。――何故その話を彼女が知っているのだろう。波留はそう思わないでもないが、きっと彼が不在の数日間に、久島は彼女にそう言う報告をしたのだろう――そう解釈する。
 彼の中の疑問はそのようにすぐに解消された。だから洋子の台詞に対して、笑顔でその感想を付け加えていた。
「ええ、そうなんですよ。かなり美味しくてびっくりしました」
「料理が出来る男の人って、本当にいいわねえ…」
 波留の言葉に、洋子はマグカップを左手に引っ掛けたまま腕を組んだ。しみじみとした口調でそんな感想を漏らす。
 ――…いや。だからそれは過ぎた評価なんだ。
 彼らの話の俎上にある当の久島は心の中でそう弁解していた。この場にもたらされているその評価に戦々恐々とする。
 何せ彼にとって、料理のレパートリーはその京風うどんのみである。確かにそのひとつの味は平均点以上を叩き出しているかもしれないが、それひとつしか覚えがないのでは「料理上手」との評価を受けるには値しないだろう。
 他者達は、久島の心中を推し量る事は一切していない。洋子は相変わらず波留に話を振った。
「じゃあ、今度は波留君が久島君に料理を作りに行かないとね」
「…ああ、そうか」
 そこで波留はぽんと両手を合わせた左手にマグカップを持ったままのためにきちんと掌は合わさってはいないが、軽い音は立てている。
 洋子のその勧めで、ようやく彼はその方法に想いが至っていた。そしてその想いは加速度的に増して行っていた。満面の笑顔が顔に浮かんだ。
「どうですか、久島さん。今度、あなたの家に遊びに行ってもいいですか?」
 わくわくとした瞳で波留はそう持ちかける。久島はそれを半ば鬱陶しそうに見上げた。視線を外す。
「………好きにしろ」
 パソコンのモニタを見やりつつ、久島はそう言葉を漏らす他なかった。全く、この状況は何だと、彼は思う。かと言って悪い気がする訳ではないのだが、全く対処に困っていた。



 久島がキーボードに両手を下ろし、起動しているエディタに向かい文字を打ち込み始める。その微かな音がお茶会の終わりを告げていた。久島当人にはそんなつもりはなかったのだが、他のふたりは彼のレポート作成作業の開始を感じ取り、空気を読んだ格好になっている。
 洋子は隣のデスクから腰を引き、ヒールを着地させる。左手にマグカップを持ち、右手には新たに摘み上げたサンドイッチがあった。そのまま自らの席へと目指してゆく。
 彼女もまた用件がありこのオフィスに戻ってきている。時間とは有限であり、一般的な観点から言えば多忙と表現出来る電理研の人間としてはそれを浪費する訳にもいかなかった。充分に息抜きは出来たのだから、その用事を早急にこなす事とした。
 波留は彼女に会釈し、次いで久島に視線を向けた。まだサンドイッチの半分は残されているランチボックスに右手を掛ける。蓋を閉じないまま、下に敷かれたマット毎、軽く持ち上げていた。左手には紅茶入りのマグカップがある。
 そして彼は無言で僅かにランチボックスを久島に示す。隣に軽く差し出す格好を取ったが、久島はそれを一瞥しただけだった。キーボードから左手を上げ、掌を立てる。ランチボックスに対してまるで制止するような仕草を見せた。
 ――私にはもう必要ない。君が食べろ。
 久島はそんな意思表示をしたつもりだった。言葉にしなくとも、その程度の意思の疎通は出来るだろうと思った。
 果たして波留は微笑んで頷いた。ランチボックスを持ち上げ、自分の胸元に引き寄せる。そしてそのまま踵を返し、久島とは数席離れている自分の席へと戻って行った。
 空調が効いているオフィス室内には、紅茶とコーヒーの香りが仄かに漂っている。しかしそれからは、この場に居合わせた3者は全く会話を交わさなかった。各々の仕事に没頭してゆく。



 戸惑いは確かに存在するが、それが久島の日常となりつつあった。  
 えらい長くなりましたが、小説形式に分割するのが面倒臭いので、SS形式でのアップです。

 実はこの話には色々と前提が存在します。でもその辺を書くのが面倒臭くなったので(お前そればっかりだな)、このSS内で纏めてしまいました。
 
 電理研入社をきっかけとして波留と久島と洋子は初めて顔を合わせる訳ですが、それから3ヶ月程度経った後の初夏のある日の出来事です。
 この3日前に波留が風邪引いて病欠し始め、その日の会社帰りに久島が見舞いに行きます。その際に立ち寄った波留宅近所のスーパーにて、久島は何故か洋子さんと出会いました。
 実は彼女も波留の見舞いに行こうとしていたのですが、久島が行くなら病人宅に大勢で押しかけるのも迷惑よねと言う判断に至り、身を引きます。で、一応は適当かもしれないけどちょっとずれてる差し入れ(端的に言うと、箱ティッシュ)を選んでいた久島を見かね、「料理出来る?」と訊いたら「うどんなら」と答えられたので、じゃあそれ作ってやんなさい消化にいいから病人には丁度いいわよとアドバイスをしてあります。
 久島もそれに従い、スーパーでうどんの食材買って(ついでに箱ティッシュもきちんとレジ通して)波留宅にお見舞い。うどん食わせてその他の面倒看て、その日は帰宅しました。
 彼が波留の部屋の合鍵貰ってるのは、その際に波留と「俺寝込んでますから久島さんが勝手に鍵掛けて帰っちゃって下さい」とのやり取りがあったからです。それだけのために貰ったものなので、今回さっさと返却したと、そう言う訳です。

 そんな裏事情があります。適当に想像して補ってやって下さい。

 電理研が新設された頃なので、まだ小湊さんは入社していません。大学生やってます。彼女が電理研に参加したら、洋子さんも交えて楽しい事になるんでしょうね。
 その辺も早く書きたいんだけどなあ…暇下さいセカンドシーズンで手一杯です。

09/06/02

[RD top] [SITE top]