模索する人々 - improve -
 大海に漂う船の縁の海が、ざぱんと音を立てた。
 水飛沫を巻き立てながら、海面に黒髪の頭が顔を出す。髪をしたたり落ちる海水がそのまま海に着水し、弾けながら同化してゆく。
 そのダイバーは顔を横に振り、水気を払う。同時に大きく息を付き、ほぼ10分振りの大気を堪能した。
 数回呼吸を続け、息を整える。波間に漂い肩から上のみを水面の上に出した状態で、左手を持ち上げた。装着したゴーグル越しにダイバーウォッチの盤面を見やり、先程のダイブでの到達深度を確認した。
 波に彼の身体が揺らされ、すぐそこにある船体もその揺れに身を任せている。ふうと溜息をついた後、船の側面に設置されている梯子の一段に左手を掛けた。そうやって身体を船体に預けつつ、右手でゴーグルをずり上げる。
「――…丁度良かった」
 ふと、上からそんな声が彼の耳に届く。その声を聴きつけた彼は、顔を上に向けた。
 しかしその瞳には怪訝そうな色が浮かぶ。聴き慣れた声のはずだったが、どうやら自分に向けて掛けられた響きではなかったからだ。
 そもそも用いられた言語からして違う。当たり前ながら、普段は母国語である日本語で話す。しかし今聞こえてきたのは、英語だった。
 ここは日本国外の仕事場であり、英語が公用語のような状態になっている。だから英語には耳慣れている環境であり、彼も流暢な英語を用いる。専門的な会話もこなせるだけの英語レベルを保っていたし、この現場の人間ならば例がいなくそれだけの英語力を身につけていた。
 だから、英語を聞きつけた事自体は何ら不思議な事ではない。しかしそれは仕事で使われるものだった。つまり、今はふたりのプライベートめいた状況ではなく、そこに第三者が居るのだろう――。
 彼は耳を澄ませる。潮騒の音に紛れ、甲板上から複数人の声が感じ取れる。どうやら、何やら会話がなされているようだった。
「――どうした波留」
 一泊置いてから、多少大きな声が聞こえてきた。やはり、英語である。だが名前を呼ばれた事で、今回は間違いなく自分に向けて声を掛けてきたのだと彼は認識出来た。
「早く上がってこい」
 再び、その波留の元に声が降ってくる。今度は、何処か命令めいていた。言語が英語であるためか、彼は何やらきつい印象を受けた。
 そんな言葉に首を捻りつつも黒髪の青年は梯子に両手を掛け、身体を船体に預けた。その状態で首を反らせて上を見る。眩しく降り注ぐ陽光の合間に、甲板の縁が垣間見えた。
 船上からは馴染みの顔が海を覗き込んでいた。
 三つ揃いのスーツを着こなす人物がそこに立っている。海風が彼のジャケットの裾と前髪を揺らしていた。
 逆光を浴びつつも彼の眉間に寄る皺が、波留にはやけに強く見えた。その印象のまま、船上の人物は胸の前に掲げた右手を、無言で上向きに振り上げる。態度からして「急げ」と言わんばかりだった。
 ――妙に高圧的な態度だ。波留は流石にそう感じ、眉を寄せた。釈然としない想いを抱きつつ、梯子を1段昇った。
 波留はダイバーであり、つい先程も100m程度潜ってきたばかりである。身体の大半をウェットスーツで保護した上で、両足にはフィンを装着している。そのため海中以外では足の動きは制限されがちだった。
 しかしこの船の場合、数段も昇れば甲板に手を掛ける事が出来る高さに至る。この船は通常の船舶ではなく観測船であるため、ダイバーの利便性はある程度追求されていた。
 目算通りに数歩上がった段階で、波留の顔に影が掛かる。それに気付いた彼は視線を上に向けると、真面目腐った顔をした男が右手を差し伸べている。特に笑みも浮かべないまま無言で屈み込み、身を乗り出してきていた。
 伸ばした手と手が重なり合うと、ぱしっと軽い音を立てた。動きに合わせて腰を浮かせて梯子を蹴ると、いつもの通りの強い力で波留の身体が持ち上がる。その最中、波留は怪訝そうな声を上げた。
「――おい、久島――」
 しかしその日本語の台詞は続かない。引き上げられた拍子に開けた視界には、別の人物が控えていたからだった。
 小綺麗な淡色のスーツに身を包んだ女性が、久島の後ろに立っている。ショートカットの黒髪が風に揺れていた。目鼻立ちはくっきりと映え、アジア系の美人と評して差し支えない容貌の持ち主である。多少の経年は感じられるが、劣化と言うよりまた別の魅力が表れている感があった。
 そんな彼女が胸に右手を添え若干屈み込み、波留に視線を注いでいた。瞳には興味半分戸惑い半分の色がある。彼女の後ろには黒服の男達が数人控えていた。
 波留はそれらを把握する。そして久島は彼を甲板に引き上げ、身体をすれ違いさせる刹那に耳元で短く囁いた。
 それに答えるように、波留は眼球だけを動かして視線を後ろにやる。久島と僅かに視線を合わせ、甲板に上がった。
 彼の身体から海水がぽたぽたと落ち、甲板に染みを作ってゆく。それと同時に濃い潮の香りが立ちこめるが、すぐそこにはその源たる大海がたゆたっている。香りは風に乗り、すぐに紛れてしまった。



「――これは初めまして。僕はダイバーの波留真理と言います」
 波留は爽やかな笑みを浮かべて女性に向き直り、癖のない英語でそう語り掛けていた。右手を差し出すと、そこからも水滴が甲板に落ちた。
 相対する女性も笑顔を浮かべ、彼の手を取った。握手を交わす。やんわりとした挨拶の中に名乗りを織り交ぜるが、その英語は流暢ながらも若干の訛があった。おそらくは母国内でローカライズされた英語なのだろう。
「彼は、人工島建築のための海洋調査を行っています」
 向かい合って立つ波留と女性の間に久島が控え、そんな風に語り掛ける。そこには今まで波留に見せてきた難しい顔はない。穏やかな笑みすら浮かべている。
 波留は横目で久島の表情をちらりと見やる。そして視線を正面へと戻し、微笑みながら握手を解いた。合意の上で手を離す。
 女性はダイバーから視線を外す。久島へと向き直った。高いヒールが音を立てる。彼女は微笑みながら、問いかけた。
「――海中調査は、人員投入ではなく観測機器を用いればいいのではないのですか?」
「仰るように、機材での観測も平行して行っています」
 対応する久島も、穏やかに受け答える。女性の言葉は柔らかながらも久島――引いてはこの観測実験への疑念を呈している。しかし久島にとってはこれは有り触れた追求だった。だから交わし方も手慣れたものだった。
「その上で、人間での観測も必要とするのですか?二重観測では費用の無駄遣いでは?」
 女性も穏やかながら言葉を重ねてくる。久島の答えに満足する様子もなく、再び質問した。先程よりも直接的な疑問を表してくる。
 久島は無言で頷いた。右手を軽く挙げ、傍らの波留を示し、言う。
「我々にはこちらの手段も必要なのです。実際問題として、機材での観測では解明出来ない海峡異常が存在するのですから」
 その言葉を耳にした女性は、唐突に口元を押さえた。その奥から僅かに声が漏れる。どうやら笑い声を上げそうになってそれを堪えたらしい。
 顔に浮かぶ笑みもあまり良い意味のものではなくなっている。有り体に評するならば、彼女は失笑を呼び起こされていた。そしてその呼び水となったのは、紛れもなく久島の言動なのだろう。
 喉の奥で笑った後、彼女は俯き加減に口を開く。
「機械に出来ない事も人間なら出来る――最先端の科学を有する日本人のあなたが、そんな希望的観測をお持ちなのですか?」
「ええ」 
 対する久島は涼しい顔のまま、真正面に女性を見据えてそう答える。失笑――或いは嘲笑にも臆さず、何物も意に介さない態度を見せた。
 彼の態度は女性にとっては意外だった。思わず口篭もる。俯いたまま、沈黙した。脳内にて思考を纏め上げようとする。
 ――どうやらこの主任とは、茶化されようが自分の論拠を曲げないらしい。日本人は属する組織への忠誠心は篤いと訊くが、ここまで眼鏡なのだろうか?
 しかしながら、観測機器でも観測出来ないと言う異常が存在するとして、それを人間そのもので感じ取る事など果たして出来るのだろうか?
 出来ると確証がないのならば、それは予算の無駄遣いである。その予算を捻出しているのは彼の所属団体ではない。人工島建設計画には多数の出資者が存在し、そこには国家そのものも含まれる。
 例えば、我々の国も例外ではない。建設計画の無駄は省くべきであり、それを指摘する資格を我々は有しているはずだ。
 また、少しでも隙があればそこに付け入り、主導権を握るべきだった。それが他国への牽制へと繋がる。この島がもたらすであろう利益に可能な限り噛み込むよう、努力すべきだ――。



 ――…とでも思っているのだろうな。彼女は。
 一方の久島はその女性の心中を推察していた。そして彼女の思考をほぼ言い当てていた。
 彼は人間心理に疎い方ではない。特にこの手の、利害が絡む方向での洞察力には長けていた。だからこそ彼は主任という社会的地位以上の権限を、この現場で実質的に預かっている。
 見抜く事は出来るが、その交わし方はまた別の問題となる。正直に言って、この相対するふたりの意見は平行線を辿る他ない。共通項を見出すのは困難だった。しかしこの手の批判には、彼はこれまでも矢面に立たされている。その都度どうにか誤魔化してきたが、早晩手慣れておくに越した事はない――そんな事を考えていた。
 不意に、女性が口許から手を離した。すっと顔を上げ、久島を見据える。その瞳には笑みが浮かんでいた。
 ――彼女の中では考えが纏まったらしい。久島はそれを悟った。ならばこちらはどう受け答えるべきか。相手の出方を待ってから対処すべきか、最初に口火を切った方が主導権を握れるだろうか――。



 ふたりの間で、お互いのみが視認出来る火花が静かに散っている時だった。
 突然、彼らが立つ地面が揺れた。
 彼らが立つ場所とは、船の甲板である。一応は固い地面ではあるが、突き詰めれば海の上には違いない。不安定な海に浮かぶ船が唐突に波に煽られ、船に備わる緩衝機能を越えた。結果、船体が大きく揺れ、そこに立つ人々のバランスへ訴えかけてきた。
 瞬時に久島は両手を僅かに広げた。両足に力を込め、靴底を甲板へと貼り付かせる。
 彼は人工島建設に携わり、海洋学者でもある。そのため船での生活には慣れた身で、この手の事態に遭遇した場合の対処法も染み着いていた。
 しかし彼の視界の先の女性は違ったらしい。
 高いヒールが甲板を滑り、捉える事が出来ない。揺れに身を任せる羽目に陥り、そのままバランスを崩した。流石に悲鳴めいた小さく短い声が彼女の口から漏れる。
 久島はそれに気付いた。反射的に彼女に向けて手を伸ばそうとした。しかし彼を遮る影があった。
 一瞬、黒服集団の誰かかと久島は思った。彼らが任務のひとつを果たしに来たのかと考えた。しかし、視界の更に向こうでは、男達の頭数は揃ったままである。
 訓練されているはずの彼らよりも先に反応した人間が居たらしい。久島はそれを目の当たりにした。
 さりげなく波留が彼女の後ろに回り、支えるように庇っていた。専属ダイバーである彼は、両足にフィンを装着したままでもこの揺れを耐え切るばかりか、他の人間に気を回す余裕があったらしい。
「――…大丈夫ですか?」
 波留は優しい声でそう問いかける。その英語は相変わらず落ち着いている。
 振り返る女性の肩口に彼の身体が触れていた。海から上がってそのままだった彼からは水気は一切失せていない。
 濡れたそこを、彼女は反射的に手で払った。そして次の瞬間、はっとした表情を浮かべる。明らかな失策だと表情が雄弁に物語っていた。
「――あ…ごめんなさい」
「いえいえ、揺れたんですから仕方ないですよ」
 戸惑うような声に、波留は微笑む。安定を取り戻したとおぼしき女性の身体からそっと両手を剥がした。フィンを持ち上げて一歩引く。
「それより、ちょっと波が高くなって来ました。船には不慣れでらっしゃるようですから、ここではなく落ち着ける場所に戻られた方が宜しいのではないでしょうか?」
 波留は胸に右手を当ててそう言いながら、ゆっくりと頭を下げた。伏し目がちに紳士的な対応を見せる。
 女性は波留をちらりと見た。その後に、久島へと視線を戻す。彼女は若干、ばつの悪そうな顔を見せていた。そんな彼女を見やる久島もまた、奇妙な気分だった。
 それが好ましいのかどうかは置いておいて、開かれるはずだった議論の戦端は何処かへ放り投げられてしまい、最早戻ってきそうになかった。
 波留が指摘したように波は先程よりも高くなっては来ている。が、船体を激しく揺らす高波は去ったようだった。



 久島が再び甲板へと戻るのに、然程時間は要していない。
 あの後、彼は件の女性を船尾へと送り届けた。そこに接岸している小型ボートに乗って、その一団はやってきたのだ。
 この船が観測船である以上、陸に戻らない日も存在する。忙しい立場の人間が観測船の着岸スケジュールに付き合うのは非効率極まりない。受け容れる側も観測のために遠洋に出ているのであり、基本的に忙しい。結果、勝手にやってきて勝手に去ってゆく状況にさせていた。
 結局彼らは、あれ以来実のある会話をしていない。適当に別れの挨拶と握手を交わしたのみだった。社交辞令めいた笑顔で再会を願ったが、それが叶うのかは謎である。少なくとも、互いにその願いを叶える意志を持っているのか、久島からは言い切れなかった。
 何やら不完全燃焼な気分に陥っている久島が甲板へと戻ってくる。すると、彼はそこにまだ居残っていたダイバーを目撃した。
 波留が、あらかじめ甲板に広げてあったエアベッドに寝転がっている。彼は四肢を投げ出し、すっかり弛緩しきっていた。瞼を伏せ気持ち良さそうな顔をしている。まるで日向ぼっこでうつらうつらとしているような印象だったが、日光浴と洒落込むにはいささか陽光が激し過ぎた。
「――何をしている。早く船室に戻って着替えろ」
 その光景を目の当たりにした久島は、呆れた声を投げ掛ける。今回用いる言語は日本語で、くだけた印象を含んでいる。
 上から降ってきた声に、エアベッドの波留は寝転がったまま瞼を開き、視線移動のみで見上げた。
 久島が太陽を遮り、彼の顔に陰を落として来ている。彼はしかめっ面を浮かべ、続けた。
「身体を冷やして風邪でも引かれたら困る。君だけの身体ではないのだからな」
「波留真理は、電理研が所有する重要な観測装置なのだから――って?」
「そうだ」
 にやりと笑って言う波留を、間髪入れず久島は首肯する。何を当然の事を言っているのだか――そんな心中が表情に出ていて、波留にも良く伝わってくる。
 仰向けの波留は首を横に振る。苦笑いを浮かべた。
「生きている人間を装置呼ばわりするお前の感性は、未だに良く判らないよ」
 不平のような台詞を言いつつも、波留の表情に陰の印象はない。全身には陽光を浴び、潮の香りを漂わせていた。



「――俺、クリーニング代を国家賠償請求されたりしないかな?」
「…するか、馬鹿」
 寝転がったままの波留からの唐突な発言に、久島は鼻白んだ。眉を寄せる。台詞の通り、馬鹿馬鹿しいと思った。彼は腕を組み、口許を歪めて続ける。
「そんなにケチな人間が国の要職に就いていると知れたら、国民に幻滅されるだろうよ。政治家とは体面を重んじる生き物だからな」
 これは久島が持っている著しい偏見がもたらす発言ではあるが、彼なりの実体験から生じた台詞だった。彼は仕事上、たまに政治家と懇談を持つ事があるのだが、それをあまり楽しいと思わない性質だった。無論、その感情を表には出さないように心掛けてはいる。
 確かに先進国ではない国家の要人は権力を振りかざしがちだが、はした金をどうこう言うような小物はなかなか存在しない。成熟した社会の小役人の方にむしろその傾向があると、彼は認識していた――もっとも本気でクリーニング代を請求するような役人が居たら、どのような国家であろうとも幻滅ものだろう。
 波留とて本気で心配している訳ではないのだろう。大体、あの女性も服を濡らされた事について特に気分を害した態度を見せてはいない。だから、波留も冗談のつもりで言っているはずだった。
 しかし、あまり面白い冗談ではないと久島は思う。だから彼は肩を竦めた。首を横に振って溜息をついた後に、言う。
「そもそも、濡れるのが厭なくせに甲板なんぞに来るから悪いのだ。そうでなければ濡れても良い服を着て来るべきだし、船の上であのヒールはないだろう」
 そんな風に久島はあの女性の過ちを連ねてゆく。彼女は、船が揺れた際にバランスを崩さなければ波留に庇われずに済んだはずだった。そして足許が覚束無くなったのは、間違いなくあの高いヒールのせいだった。服装から間違っていたのだと、久島は言外に指摘する。
「ふーん…」
 久島の弁を耳にした波留は間延びした声を出した。あまり関心がなさそうな印象である。
 その声に、久島は僅かに首を傾げた。波留が振ってきた話題に答えただけだと言うのに、やけに反応が薄いと思った。腕を組んで直立したまま、若干波留の顔を覗き込んだ。
 その瞬間、久島はバランスを崩した。
 急に彼の視界が横にスライドする。反射的にバランスを取ろうとするが、妙な勢いで靴底が甲板の上を滑って行った。
 視界がそのまま落ちてゆき、甲板目がけて仰向けに倒れようとしている。その最中も足首を引かれているような感触を覚え、ふと彼はその方向へ頑張って視線をやった。
 かろうじて捉えた視界では、久島の足首を掴む手がある。それは心霊現象でも何でもなく、先を辿れば人間の身体に行き着いた――ウェットスーツの下に程好く筋肉を纏った男に。
 寝転んだ波留が、手を伸ばして久島の足首を掴んで引き倒していた。久島自身もそれを認識する。しかし、それに対処する行動を起こすには、遅かった。
 久島はバランスを崩し、仰け反った挙句に耐えきれず、後ろに倒れた。
 しかし、甲板に背中を叩き付けられる事態には陥っていない。背中の下にはエアベッドがあった。
 波留は足首を引く方向を上手く見極めていた。更に身体を捻って久島を避け、ベッドを譲る格好になるよう仕向けたのである。
 結果、エアベッドに久島の背中が真っ直ぐに落ちてくる。ベッドが音を立て、彼の身体を受け止めた。クッションの役割を果たすベッドが衝撃を吸収し、船の揺れとはまた別の振動を彼の身体にもたらす。見上げる視界はまだまだ眩しく、彼は目を細めた。
 その数秒後、久島の背中にじんわりとした感触が来る。思わず顔を顰めた。
 彼はそれを水気だと悟る。エアバッドは甲板で太陽に晒されては来たが、しっかりと濡れたままの波留がその身を置いていたためにあまり乾いていなかったらしい。溜まっていた海水がジャケットとベストとシャツと肌着と――何枚重ねもの服を突破して素肌に到達してきているようだった。



「――…おい」
 振動が収まった頃に漏れてきた久島の声は低い。如何にも不機嫌そうな響きがあった。
「服が濡れてしまったじゃないか」
 言いながら久島は、仰向けのまま両肘をベッドの上に折り曲げて立てようとする。とりあえず上体を起こして背中をベッドから剥がし、これ以上の浸水を回避しようとした。
 が、彼の試みは頓挫する。波留が右手で彼の肩を押さえ付けてきたからである。今の久島の体勢では、下に押し付けてくる力には対抗出来ない。彼は振り解こうとするが、見下ろしている波留の顔には悪戯めいた笑みが貼り付いていた。
 それを見上げていると、久島からは抵抗する気が失せた。四肢から力を抜き、投げ槍に投げ出す。その動作の最中、不満げな吐息を漏らした。
 波留の手が肩から離れてゆく。強い陽射しを浴び続けていた彼の身体は、末端部分においては多少は乾いてきていたらしい。そのため、手を押し付けられた久島の肩口の布地が酷く濡れる事はなかった。それでも、若干の湿り気は残っている。それ以上に、背中からの湿り気が酷いものとなって来ていた。
「――あの人にああまで言ってのけたお前さんは、濡れてもいいスーツ着てるんだろ?なら、別にいいじゃないか」
「お前な…」
 明るい声で言い張る波留を、久島は横目で見上げる。声は相変わらず低いままで、短い言葉の中に抗議を含めていた。
 しかし、いつもとは違い長い台詞で反論はして来ない。波留の言葉には、ある指摘が隠されている事に気が付いていたからだった。
 果たして波留はそこを明確に指摘してくる。笑顔のままに、何処か諭すような印象を湛える声色だった。
「お前こそ、こんな所にブランドもの着てくるなよ。言行不一致も良い所だ」
 途端、久島は憮然とした表情を浮かべる。寝転がったまま視線を彷徨わせた。波留が言っている事は事実に他ならなかった。それでも、言い訳を試みてみる。
「今日みたいに何時接待になるか判らん身の上でな。如何なる時も気が抜けんのだ」
「それ、あの人も同じなんじゃないのか?」
 波留からのさり気ない指摘に、久島は口籠る。あっさりと反駁を突破されたと感じた。
 そして、確かにそうなのだろうと思った。だと言うのに他者を批判しておいて自分は棚に上げるとは、あまり良くない態度なのだろう。
 波留の視線が久島の顔に注がれている。無遠慮に覗き込んでくる瞳から逃れようと、久島は軽く顔を逸らした。
 瞬間、微かに波留が笑う。座り込んだまま、自らの膝の辺りを軽く掌で叩いた。ぽんと軽い音が響くが、湿り気を含んだウェットスーツの上からだったせいか、若干濁っている。
「アポ無しで押し掛けてきた人間なんか、突っぱねりゃいいだろうに」
「そうも行かんよ。これは商売だからな。相手から資金と理解を絞り取るための努力を、現場の人間も惜しむ訳にはいかん」
 笑い声を含んだ波留からの声に、久島は真面目腐った声で応えていた。そんな中でも背中からの浸水はじわじわと続いている。背中がべとついてきたような気がした。
 厭な感触から気を紛らわせるべく、久島は顔を天へと向けた。途端、陽光が彼の瞳に飛び込んでくる。瞳孔での光量調整も間に合わず、彼は眼を細めた。右手を挙げて視界を遮るように影を作り出す。
「しかし…眩しい」
「それも、俺が良く見ている光景だな」
 何気なく漏らした言葉に、波留は反応した。その声を聴き付けた久島は、手で造り出した影に紛れつつも波留を見上げる。甲板上で胡坐を掻いて座っている波留は全身に陽光を浴びつつ、その太陽を直視していた。
 その全てを眩しく感じ、久島は軽く瞼を伏せた。しかし暗い瞼の裏に光点が点滅して、結局眩しいままの気がした。だから再び瞼を開く。眩しさのせいか僅かに涙が分泌されている目許を感じつつ、彼は呟くように言った。
「…12月だと言うのに、まだ随分と陽が高いな…」
「そりゃあここ、日本よりも随分西だし。その割には時差あんまりないしな」
 淡々と応える波留の声が、海風に乗って流れてゆく。



 時間帯としては夕方を迎えつつあるが、太陽は未だ高い。その太陽からの光を浴びつつ、ふたりの男が甲板上に居座っていた。
 ひとりはスーツ姿のままエアベッドに寝転がり、もうひとりはその傍らで胡坐を掻いている。何処かアンバランスな印象を与えてくる光景だった。
「――今日の…フィリピンの環境相だっけ?大体、こんなむさい所に、美女が一体何しにいらっしゃいましたか」
 横目で久島を見下ろしつつ、波留はそんな風に問い掛けてきた。やけに丁寧な言葉を選んでいる。
 その口調に、久島は波留なりの諧謔を感じ取った。彼が久島に対して丁寧後で話し掛けてくる時は、ほぼ例外なくろくでもない事を考えているからだ。これもまた久島が抱く著しい偏見ではあるのだが、経験則から来るものでもあった。
「視察との名目だ。彼らにとって、この海域は近海だからな」
「視察ねえ…」
 淡々と答えた久島に向ける波留の視線は笑みを含んでいる。しかし声の調子からは、僅かながら不審そうなものが感じられた。そしておそらくは、その不審は久島に向けられたものではない。
「いくら経済特区とは言え、自分達の目と鼻の先を不可侵領域にされては、気分が悪かろうて。本当なら国防相を送り込みたい所だったかもしれんぞ」
「この辺、公海だろ?どの国にも文句を言われる筋合いはないはずだ。そう言う合意で調印されたはずだ」
「建前と本音が違うのは、何も日本だけの文化ではないという事だな」
 海を手で指し示しながら語る波留を、久島は寝転がったまま見上げて言う。現段階で彼は後頭部にも水気を感じて来ており、鼻腔に届く潮の香りも強くなっていた。
 しかし今の久島には身を起こす気はない。結果的に楽な姿勢を取っている状態に陥っているため、心地良さすら感じ始めていたからである。彼自身は然程気にしているつもりはなかったが、多忙さの中で心身共に疲れてはいたらしい。彼はそれに気付かされていた。
「ASEAN諸国と多様な国籍の株主とが協力して建設する楽園の島――って触れ込みじゃなかったっけ?評議会にはそれぞれの国から偉いさんが送り込まれてるって話だし、今更場外乱闘は止めてくれないかなあ」
「様々な人間が関わり過ぎて、どの国もどの組織も思うように主導権を握れんのが現状だ。何せ、船頭が多過ぎる」
 ぼやくような波留の言葉に、久島は淡々と答えを返す。その後、瞼を伏せる。実の所、久島は応えるのが面倒臭くなってきているのだが、与える答えは明快さを保ち続けていた。以前から把握している組織の実情をそのまま口端に乗せているだけだからである。
 現在建設中の「人工島」には評議会と言う運営組織は存在するが、そこを纏め上げるための役職は未だ存在していない。各国の駆け引きが続き、彼らの首長を決めかねているのが現状だった。
 いっそ、島の建設が完了し本格的な入植が解禁される頃まで決定されないかもしれない。現段階では首長を選出しても治めるべき「島」は存在しないのだから――そんな建前を押し通して面倒な問題を先送りにする可能性も現状の混乱からして、あり得る話だった。
「船頭が多いのは別に構わないけど、くれぐれも船を座礁させないで欲しいもんだなあ。その船、俺達も乗ってるんだから」
 波留のこの言葉に、久島の顔がぴくりと反応した。ゆっくりと瞼が上がる。寝転んだ体勢のまま、じろりと波留を見る。睨め付けるような視線を向けた。
「…させてたまるか」
 低い声が久島の口から漏れる。またしても不機嫌そうな声色になっていた。
 空を見上げていた波留は、その声を聴き付けて視線を落とす。彼はそこに苛立たしそうな顔をした久島を見た。視線が合うと、波留はきょとんとした表情を浮かべる。
 が、すぐに微笑んだ。にこやかな笑いと共に、久島に語り掛けた。
「そのために、現場責任者のお前が居るもんな」
 波留の言葉に、久島は眼を瞬かせる。意識が覚醒し、一気に眠気を吹き飛ばされた感がした。
 そんな彼を波留は相変わらず笑顔で見下ろしている。不意にその口角を上げ、にやりと笑った。その表情を維持したまま右手で寝転ぶ同僚を指差し、言った。
「――その首に替えても頼みますよ、主任」
「おい…勝手に人の首を賭けるな」
 久島は顔を顰めた。思わず首筋に右手を当てる。この男が自分に丁寧な口調で喋ってくる時は、本当にろくでもないと痛感した。
 憮然とした久島の上を、波留の爽やかな笑い声が風に乗って通り過ぎてゆく。



「――まあ、確かに彼女が突いてきた所の論拠が弱いのは、私も重々承知している」
 穏やかな海風を頬に感じつつ、久島はそんな事を言い出した。
 それを波留は意外に思う。今更、件の大臣様の話題を持ち出すとは思わなかったからだ。その気持ちは、短い声に表れる。
「へえ?」
「もう少し…第三者が君の感覚を理解出来るよう、何かに置き換える手段を考えるべきなんだ。現段階では君の主観に過ぎないのは事実だからな」
 どうやら久島としては、それを真面目に考え込みたいらしい。エアベッドに寝転んだまま、腕を組んだ。
 一方の波留も胡坐を崩す。片膝を甲板に立て、片手を突いた。横たわる久島を覗き込む。
「例えば、何に?」
「それが思い付けば苦労はしない。全く…何か、閃きが欲しいものだよ」
 久島がそうぼやいた時、頬に水滴を感じた。何事かと視線をやるが、上には波留の顔がある。顔に貼り付く髪は濡れたままで、前髪の先には水分が飽和していた。その先端から水滴が落ちて来たのだろうと、久島は判断した。
 腕組みを解き、右手を挙げる。頬を拭った後に前髪を掻き上げるが、どうも湿り気があった。エアベッドの海水がそこまで染み込んでいた事を知る。
「――俺が感じてる感覚をデータ化出来ればって話だよな」
「そうなるな」
 問題提起に対する肯定を受け、波留は顎に手を当てた。視線を上向かせて考え込むような仕草を見せる。
「観測装置は観測装置らしく、観測機材みたいに、俺の感覚をデータ化出来ればいいんだよなあ…――」
 波留の言葉が海風に解けてゆく。それ以降、沈黙が降りた。ふたりして甲板上で首を捻ってみる。しかし、現段階では解法は得られそうになかった。



 不意に強い海風が甲板を駆け抜けてゆく。強い潮の香りを乗せ、海へと還って行った。
 その瞬間、唐突に久島はくしゃみをした。次いで、背筋に寒気を感じる。水分を含み本格的に濡れているのは、主にその付近だった。
「――おい、お前が風邪引いたら駄目だろ。ほんと、言い出しっぺのくせに色々とまあ」
「…誰のせいだ」
 呆れたような表情で同様の声を上げる波留に、久島は眉を寄せて言う。低い声は最早凄むような調子に至っていた。
 が、それもすぐに解けてしまう。またしてもくしゃみの発作に襲われたからだった。思わず身を震わせ、身体を縮こまらせる。掌に近付いた口から漏れる息が、手にはやけに暖かく感じられた。
「濡れたせいか、海風が冷たくなってきた」
「じゃあ、お前こそ着替えてくるんだな。いくら何でも着替え位持ってきてるだろ?ブランドものじゃないかも知れないけどさ」
「…まあな」
 口数少なく久島は答えたが、波留の台詞のどの部分までを肯定したかは定かではない。ともかく寒いのは事実であり、それを自覚した今では寒さが増してきていた。
 久島はエアベッドから身体を起こし、甲板に立ち上がる。波留がそれを阻止する事は、もう無かった。視線だけを向けて久島の背中を追ってゆく。久島はすっかり濡れてしまった背中を波留に晒している。スラックスの裾からぽたりと水滴が落ちた。
 そのまま久島は歩みを進め、船内への降り口を視界に入れる。その間の僅かな海風も背中に沁みて行った。
 若干濡れた髪を風に揺らしつつ、久島はふと振り返る。甲板の縁に座り込んだままの波留を見やった。波留は太陽を全身に感じたまま、空を見上げている。
「――君はまだそこに居るのか」
 そんな波留に、怪訝そうに久島が問い掛ける。波留は横目で久島を見た。顔を動かさず、視線のみを向ける。口許に微笑を湛え、言った。
「ああ。ここでもうちょっと黄昏ておく」
「…何だそれは」
 久島はそんな声を漏らすが、これ以上吹きさらしの甲板に身を置くつもりはなかった。早く濡れた服から着替えなければ、本当に風邪を引いてしまうだろう。
 観測船の船内は基本的に涼しい気温に保たれている。積まれたサーバを始めとした機材類のための温度管理であり、涼む事は出来ても暖まる事は難しかった。外はそこそこ暑いために通常時にはむしろ嬉しい環境なのだが、体調を崩しそうな人間には害悪だった。
 背後から強い海風が吹いてくる。久島は追い立てられるように、身体を降り口へと滑り込ませて行った。
 そんな親友をよそに、波留は心地よさそうな表情を浮かべて太陽の光を浴びていた。



 ――以上が、2011年12月22日のアジアの南洋上での出来事である。
 と言う訳で、pixivで本文のみ先行公開してましたが、無事タイトル確定させてこっちにも持ってきました。
 2011年12月22日、つまりリアルタイムな今に合わせた話なので、大急ぎで公開しなければならなかった訳です。波留の事故から丁度1年前に当たる日が遂にリアルタイムに訪れたので、何かをしたかったんですよ。

 1年前ですので、波留はダイバー専業になってます。しかしまだメタルはありませんので、若干手探りな調査が続いています。
 そして人工島建設はぼちぼち進んでいて、色んな利権者が存在して、黎明期特有のごちゃごちゃカオスな混乱状態になっています。そういう世界背景があります。政治闘争って書いてて楽しいです。

 …特に後書きって言っても、その程度かなあ?あまり思い付きませんでした。
 いよいよ来年にはあの事故の日が来てしまうし、他にもRD年表に関わり合いがあるネタの日も出てくるんですよね。その都度何かやりたいなあとは思っていますが、どうだろうなあ。都合良くネタ出てくるかなあ。
 
 ………ああそうだ、偉いさんに会うために珍しく波留がスーツ姿で正装する羽目になって…って話を当初考えてたんですが、「それ春の旋律と被るじゃん」と思い直してボツった…って経緯が存在します。もう4年目のジャンルにもなると、自分の中でもネタ被りが出てきて難しい部分がありますね。

 pixiv側でもちょこちょこ何かやってますので、御覧になれる方はチェックしてみると楽しいかも知れません。アドレスは絵板に晒してると思います。多分流れないだろう。

11/12/22

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