おかしなふたり - impalpable -
 蒼井ミナモと言う少女には、電子産業理化学研究所――通称電理研に勤める父と兄が存在する。
 それは、人工島の入植者としては然程珍しい家族構成ではない。電理研とは人工島を技術面から支配する巨大企業であり、関連企業も含めたら莫大な人間が関わっているからだった。
 彼女が所属する人工島中学校3-Aにおいても電理研関連企業に身を置く親を持つ子が多いはずである。そうでなくとも、メタリアル・ネットワークを始めとする電理研の技術を社会基幹としている人工島の住民である以上、電理研と言う組織には縁深いものだった。
 とは言え、未成年者が実際に電理研内を訪れる機会はそうそうない。社会科見学などの一環で訪れた経験がある子供はそこそこ居るだろうが、それも規定されたルートを案内されるのみであり、内情を具体的に見物出来る訳もない。
 ましてや今のミナモのように、電理研の応接スペースに通されて相手を待つ羽目に陥る中学3年生など、普通は存在しないはずだった。



 職員の家族などが様々な用件を携えて電理研を訪れる可能性はないとは言えない。その場合、一般公開もされているリラクゼーションルームにて待ち合わせる事が一般的な作法だった。他愛のない会話や差し入れの受け渡し程度ならばそれで充分だからである。それ以上のプライベートが介在するような行為は、社内では慎むべきだった。
 電理研内に存在する応接間は、通常は商談などに使用される。アバター通信が一般化している人工島ではあるが、実際に面と向かって会話する手法が廃れた訳ではない。都合が許すならばリアルでのやりとりを優先したい人間も、未だに無視出来ない割合で現存していた。
 今回のミナモのケースは、そのどれにも当てはまらない。しかも、彼女が今回通された応接スペースは、電理研内部においても深層に位置する場所に存在していた。そんな階層を訪問する事自体、普通の中学3年生にはあり得ない話だった。
 普段快活なミナモが、何処か居心地悪そうに周りをきょろきょろしているのも、そう言った気後れが成す行為なのかもしれない。さしもの彼女も平常心では居られないのだろう。
 制服姿のミナモは、トレードマークとなっている大きなトートバッグを膝の上に置き、抱え込むようにしていた。テーブルの上には紅茶が淹れられたティーカップが置かれている。その紅い水面からはほのかな香りを漂わせているのだが、一口つけたきり進んでいない。
「――呼びつけておいて待たせてしまい、すまなかった」
 不意に室内の更に奥からそんな声を掛けられ、ミナモは身体ごと反応する。顔を上げ中腰になり、慌てて立ち上がっていた。抱えるバッグが膝の辺りを隠す。
「――久島さん!」
 ミナモは彼の名を呼び、深く頭を下げる。するとミナモの向かい側に位置する自らの席の方に回り込んだ壮年の男は、右手を挙げて彼女の動きを制するような仕草を見せた。
「いいから。席に着いて」
「あ…はい」
 年上の男性の手馴れた口調でやんわりと諭され、ミナモはそのままソファーに腰を下ろす。それでもバッグを抱え込むような態度は変わらない。縮こまった印象を振り撒いていた。
 人工島住民の水準からしたら標準的な少女の枠から外れていないはずの蒼井ミナモの元に現れたのは、電理研統括部長たる久島永一朗だった。
 そしてこの彼のオフィスにミナモは今回呼び付けられた格好になっている。そんな出来事は彼女の15年の人生の中では全くの初めての経験だった。



 久島永一朗と言う人物は、電理研のみならず人工島における最高権力者のひとりである。彼こそがメタリアル・ネットワークの始祖を構築した人物であり現在もメタルの神としての地位を保っている。島を支配するばかりか、そのように世界中から尊敬の念を集める技術者としての立場も大きい。
 ミナモと向かい合う席に着いた久島は、足を組みその上で両手を組んだ。電理研の制服の上に羽織った白衣とのいでたちは、ミナモに真面目腐った印象を与えてくる。それが、彼女にとって「いつもの久島」とのイメージに他ならなかった。
「――波留の様子はどうだい?」
「あ、はい。お元気そうですよ」
 応接スペースのソファーに腰掛けてすぐに久島が振ってきた話題に、ミナモは素直に乗る。――久島さんはやっぱり波留さんの事を訊きたがるんだ――彼女はそう感じていた。そう思うと、久島の印象が何処か柔らかく変化したような感じもする。
「波留はいつも無茶をしてくれるからね。今はメタルでそれが顕著でね。彼に付き合ってくれている君には、迷惑を掛けていると思うよ」
 会話を始めた最中、秘書型アンドロイドが人間の上司に対して紅茶を淹れてきた。久島は顔を上げてソーサーを受け取り、無言で会釈するのみで彼女を退出させてゆく。
 ミナモはその様子を眺めていたが、久島の会釈に思わず自分もそのタイプ・ホロンに対して大きく頷いていた。彼女は、やってきた「お姉さん」に対しては無視を出来ない性質だった。
「私はメタルの事は良く判りませんけど、ホロンさんがきちんと対処してると思います」
 それからミナモは口を開く。波留をマスターと設定された介助用アンドロイドの存在を鑑みて答えた。
 言いつつも、ミナモにはふと気付いた事がある。すると微笑みが顔から消え、怪訝そうな表情に取って変わった。そして躊躇いがちではあるが、それを指摘し始める。
「――…って言うか」
「何だね」
 何かを言い掛けたミナモに対し、久島は水を向けた。ちらりと少女の顔を見やり、軽く右手を挙げてその先を促す。
 そんな彼にミナモも視線を合わせてきた。大きな瞳が伺うように壮年の男を見つめ、軽く頷く。何かを決意したような顔をして、口を開いた。
「波留さんにはホロンさんがいつも付いてるんだから、ホロンさんに訊いた方が確実だと思いますよ?私、メタルの事良く判らないし、介助についても私よりもホロンさんの方が良く判ってると思うし」
 ミナモはメタルダイバー波留真理のバディとして正式に登録されている。そしてそもそもは、介助実習の担当者として彼との関わりは始まっている。
 しかし彼女自身は未電脳化者であり、メタルには全く疎い。介助と言う面においても、所詮は中学生の実習レベルの技術と知識に過ぎなかった。
 そしてホロンは波留をマスターとして仕えるアンドロイドである。介助人としてのサポートは波留が目覚める以前から行っていたし、彼がメタルダイバーとなって以降はそのサポートも行えるだけの技能設定を備えていた。
 つまりホロンは、介助とメタルダイブの双方において、技術面においてはミナモより優れているアンドロイドなのである。そして彼女は波留をマスターとすると同時に、久島をシステム管理者と設定されている。久島は、システム上の地位は波留と同等の最高位に位置する。そんな彼はホロンに様々な質問を行える立場にあった。表現を単純化するならば、ミナモが指摘したように「ホロンに直接訊けば早い」と言う事になる。
 一方、久島は虚を突かれた顔をしていた。しかし彼もミナモにそう指摘されると、少女の意見の正しさを認めざるを得ないと内心結論付けるに至った。さりげなく瞬いた後に、述懐するように口を開く。
「――…まあ、確かにそうだな」
「ですよねー」
 引き出された久島の返答に、我が意を得たりと言わんばかりにミナモは大きく頷いていた。そして少女の考えは新たな方向へと向かってゆく。
 そもそも波留の話題は、敢えてここで訊くまでもない。多忙なはずの久島は波留の事務所を良く訪れるし、ミナモも放課後には事務所に顔を出しているからだ。仮にミナモに何か訊きたい事があるなら、その機会を捕まえたらいいはずだった。
 なのに、久島が自分をわざわざここに呼びつけたのは一体どういう事情からなのだろう――。
「――あ、まさか」
 考えを巡らせたミナモは、唐突にまた何かに気付いたような声を上げていた。視線を中空へと巡らせて、虚空へと留めた。
「…何だね」
 また何かを言い掛けて立ち止まった少女に、久島は先を促す。その声に、ミナモの視線がすっと彼の顔に向かった。男の顔をじっと見据えた一瞬後、彼女は眦を上げた。
「まさかソウタが久島さんに迷惑かけたとかですか!?」
 瞬間、少女の口から頓狂な声が漏れた。その態度に、久島は呆気に取られた。
 以降、ミナモはまくし立てる。自分の考えの正しさを確信したかのような態度だった。
「そうなんですね!全くあの馬鹿ソウタってば、久島さんに迷惑かけてばっかりなんだろうなって思ってました。ほんとにもう、うちの兄がふがいなくて申し訳ありません」
 台詞の最後に、ミナモは両手を膝に当てて頭を深く下げるに至っている。心からの謝罪を態度に示していた。
 それを目の当たりにした久島は、眉を寄せる。ゆっくりと両手を組み替えた。
「――…いや…」
 久島は内心は戸惑いつつも、発する台詞ではミナモの意見を否定しにかかる。それでも少女の勢いに、彼は多少押されていた。口調にもそれが現れる。
「…蒼井君はきちんとやってくれているよ。私は彼の働きに満足している」
「この期に及んで庇ってくれなくてもいいです」
 そんな久島からの弁護を、ミナモはばっさりと切り捨ててしまった。眉を寄せて顔を顰め、首をぶんぶんと横に何度も振ってみせる。
 少女が提示したその態度に、彼女の兄の直接雇用者は思わず口をぽかんと開けてしまう。彼は咄嗟には何も言えずに口を開けたままとなってしまったが、気を取り直して感想めいた台詞を漏らした。
「…君、自分の兄の事を一体何だと思っているんだ」
 自らの兄に対して酷い言いようのこの少女に、果たして呆れるべきなのか怒るべきなのか――久島はそこを判断しかねていた。これは彼らのプライベートなのだから部外者が立ち入るべきではないが、多少は窘めるのが年長者の義務ではなかろうか?
 しかし、今一歩踏み込めない。彼は内心の淀みを感じつつ、深い溜息を漏らした。そして眉を寄せて伏し目がちに言い募る。
「――仮に彼の勤務態度に注意すべき点が見つかった場合、私は彼自身に直に告げるつもりだ。彼は22歳の立派な大人で、自立した社会人だ。御両親を巻き込む筋合いもない。ましてや、年少で未成年者の君に告げ口してどうする」
 結局彼は、くどくどと長い諭しを与えていた。兄に対して著しいバイアスが掛かっているとおぼしきこの妹に納得して貰うためには、明確な表現で言葉を費やすべきだと判断したからである。必ずしもそれは情ではない。理知的な結論が彼の中に存在している。
「そんなもんですか?」
 首を捻りつつミナモはそんな感想めいた台詞を漏らしてきた。その態度に久島は短く溜息をつく。
「社会とはそう言うものだよ」
 久島が述べたそれは、曖昧に全てをひっくるめてしまう表現ではある。しかし彼は先に長々と語った以上、饒舌になるつもりはなかった。あれ以上は煩いだけだと思った。
 彼の向かい側のソファーに腰掛けるミナモは、相変わらずきょとんとした顔をしている。眉を寄せ上目遣いに視線を彷徨わせた挙句、言った。
「てっきり私、愚痴でも訊かされるものかと」
 さらりと言ったミナモに、久島は面食らった。「愚痴」とは穏やかではない表現を用いられたものだと思う。この少女は、そこまで私を愚かだと思っているのか――。
 内心、苦虫を噛み潰したような気分に陥る。しかしそれを表に出すのは大人げないと彼は知っていた。言っても子供相手の話である。語彙に乏しいが故に、このような厳しい言葉を用いてしまうのかもしれないと、彼はミナモを擁護していた。
 自分が妙な顔をしていないかと思う。それを見せてはならないような気がして、彼はちらりと視線を落とした。先程タイプ・ホロンが淹れていった紅茶の紅い水面が目に入る。僅かな空調の流れに、微かな波がそこに発生していた。
「…私は愚痴は好きではないよ。非建設的な行為に過ぎる」
「でも、波留さんには良く愚痴ってるじゃないですか」
 何の迷いもなくさらりと返されたその言葉に、久島は思わず顔を上げる。眼前の少女をまじまじと見つめた。
「…そう見えるのか?」
「はい」
 改まって静かに問いかけてみると、15歳の少女にきっぱりと言われ、頷かれてしまう。久島は、その態度に呆気に取られる。何を言い出すのかと思うが、自らが完全に潔白かと問われたら、確かに自信がなかった。
 気の置けない親友相手についつい仕事上の愚痴を零すのは、彼が50年前から持っている悪癖だった。そしてその親友が目覚めたのは50年振りなのだから、今までは固いはずの彼のガードも50年振りの世間話の中に紛れて多少緩くなってしまいがちだった。
 その自覚は、久島にもなかった訳ではない。しかし15歳の少女に見抜かれてしまっているとなると、失態と言わざるを得ない。
 彼は誤魔化すように肩を竦めた。やけに縮こまるような姿勢で、ぼやくような言葉を貰す。
「…君は私の事を一体どう思っているんだね」
 久島は、別に答えを求めていた訳ではない。あくまでもそれはぼやきであり、自己完結してしまっていた台詞だった。しかしそれを受け止めたミナモは、考え込むような仕草を見せる。
「えーっと……――お友達、ですかね?」
 少女の口からもたらされたのは、やけに単純化された答えだった。それに久島は口を噤んだ。
 ――愚痴の次は、お友達と来るか――反論めいた何かを言い出そうと言う気が、彼の中から一気に失せていた。



「――えっと…じゃあ久島さん、私をどうして呼んだんですか?」
 沈黙する久島に、ミナモは戸惑うような声を漏らしていた。それに久島は顔を上げる。その本論を忘れそうになっていた。
 無言のまま、久島は白衣の胸ポケットに右手を差し込む。そこにはペンが刺さっているが、今の彼はそれには目もくれない。浅く指を差し込み、人差し指と中指で何かを摘み上げた。それをそのまま、ミナモへと差し出す。
 ミナモは目の前に提示されたそれをまじまじと見つめた。それは何の変哲もない封筒だった。然程中身も入っていないのか、厚みもない。
 ミナモはその封筒と久島の顔とを数度見比べたが、彼からは何の反応もない。それを把握した彼女は、ぺこりと頭を下げた。両手でその差し出された封筒を受け取る。
 彼女の手に渡った時点で、久島はその封筒から手を離す。そして再びその手を組んだ。正面を見据える。その表情は何処か堅苦しい。
 封筒を手元に引き寄せたミナモは、その口が既に封切られている事に気付いた。ペーパーナイフか何かで綺麗に封筒の端が切られている。そこに吸い込まれるような気分で、彼女は指を差し込んだ。中を探る。
 すると、そこには薄い紙が入っていた。そのまま引き出してみると、長方形の一遍にミシン目が走りもぎれるようになっている。どうやら何らかのチケットらしかった。
「――…一之瀬カズネ、バイオリンコンサート?」
 ミナモは確認する意味で、そこに書かれた文字をそのまま読み上げていた。
「ああ、そうだ」
 久島も彼女の言葉に頷く。確認行為に付き合ってみせた。
 ミナモは顔を上げる。久島を見据え、訊いた。
「これ、何ですか?」
「だから、コンサートのチケットだ」
「はあ…」
 額面通りの言葉を繰り返した久島に対し、ミナモの反応は一向に要領を得ない。
 シンプルではあるが、チケットセンターなどでの発券ではなくきちんと印刷されたチケットを両手で摘むように持つ。そこに印刷されているバイオリンを構えた白髪交じりの初老とおぼしき眼鏡の男性の画像をちらりと見た。
「――これ、波留さんに渡せばいいんですか?」
 ミナモが導き出したその台詞に、久島は鼻白む。思わず、内心の考えがそのまま言葉となって口から突いて出てきた。
「…何故そうなる」
「え、違うんですか?」
 その久島の反応は、ミナモにとっては全く意外な話だった。だって、久島さんは波留さんの事が大事なんだから、こういうプレゼントだってアリだと思うし――。
「波留に渡すつもりなら、私は自分であいつに渡す。わざわざ君をこんな所に呼びつけやしない」
 しかしそんなミナモの考えを、久島の言葉は真っ向から否定してくる。どうやら本当に波留の事は介在させていないらしいと、彼女は捉えた。では、どういう事だろう――?
「じゃあ、一体何ですか?」
 ミナモは内心の疑問をそのまま口に出していた。その態度に、久島の眉間に刻まれた皺がますます深くなった。噛み合わない会話に、彼は疲れを覚える。最早隠そうともせず、溜息をついた。
「………だから、何故判らない」
「え?」
「そのチケットを君に渡したいから、私はこうして君をここに呼んだんだ」
 ミナモは首を傾げる。彼女にとっては、久島が言っている台詞の意味こそが全く判らない。久島とは違って噛み合っていないとの自覚に至ってはいないが故に、自分の方から歩み寄ろうとの考えはない。
 だから久島の説明を待つばかりである。そして久島は彼女のその認識を悟った。余程判り易い風に言わないと納得しないのか――。
 その時点で、彼は妙な覚悟を決めた。その結論を、言葉として用いる。
「だから…私はそのチケットを君にプレゼントしたいんだ」
「――ええ!?」
 ここまで明確に言われた時点で、ようやくミナモの口から驚きの声が漏れていた。チケットを持つ両手に力が篭もり、思わずミシン目に沿って破ってしまいそうな感になる。ぴしりと言う微細な感覚に気付いたミナモは、慌てて両手から力を抜く。
「え、どうして私に久島さんが?」
「君には色々とお礼をしたくなったからな」
 言いつつも、久島は何故か俯き、顔を背けている。ミナモを直視出来ない様子だった。自らの前にある紅茶の水面に視線を注ぎつつ、眼前の少女へと言う。
「波留が君に迷惑をかけているのは明白だし、何よりこの前の事件を解決してくれたのは君だ」
「エライザさんの件ですか?」
「ああ」
 俯いたまま、久島は頷く。少女と統括部長の間に、ある事件が共通認識として流れてゆく。
「無茶をしてくれた波留に、君が会いに行ってくれた。君は未電脳化者だと言うのにメタルダイブまでしてくれて」
「でも、あれは久島さんが準備してくれたどすこいのおかげですよ」
「たとえ機材が揃っていたにせよ、それを扱う人間に勇気が備わっていなければ、どうにもならんよ」
 何の衒いもなくミナモは未電脳化者用ダイブギアの俗称を口にし、久島もそれに特に引っかかりを覚える事もなく流している。ふたりは大真面目なのだが、仮に第三者が見ていたならば、若干の笑いを誘われるかもしれない。
「私とて、君の功績は素直に認めたい。波留を救ってくれてありがとう」
 そう言って久島は深く頭を下げた。15歳の少女に対し、電理研の皇帝がそんな態度を示している。
「そんな…――」
 ミナモが恐縮しているのは、久島の地位が高いからではない。自分がやった事はそこまで高く評価される謂われはないと認識しているからだった。



「クラシックコンサートなんてものが、君のような若い子の性に合うかは判らないがね。私の元に回ってくるチケットと言えば、この手のものしかないんだ」
 一方の久島はそんな事を言っている。彼自身、もうミナモに受け取り拒否されるという心配には至っていないらしい。
 ミナモは顔を上げた。チケットと久島とを見比べる。ふと、興味を惹かれたように訊いた。
「――久島さん、クラシック聴くんですか?」
「いや」
 それは、即答だった。ミナモは思わず瞼を瞬かせた。あまりにも取り付く島もなく切り捨てられた気がして、久島をまじまじと見つめてしまう。
 そんな少女の視線に、久島も気付いた。酷く大人げない態度を示してしまったと勘付く。僅かに身じろぎし、ちらりと少女を見た。右手を顎に当て、何処か言い訳がましく言った。
「…電理研職員には誰の例外もなく安息義務が課せられている。年1回のクラシックコンサートがそれに含まれているだけだ。私の趣味ではない」
「義務なら、それサボっちゃまずいんじゃないんですか?」
「他の手段でも補えると、職員規則に明記されている」
 この会話におけるミナモの疑問はもっともであるし、久島の説明にも嘘は存在していない――語っていない事があるにせよ。
 瞼を伏せて涼しい顔で語る久島を、ミナモはじっと見据える。そして得心したように頷き、言った。
「――まあ、久島さんって電理研で一番偉い人だし。どうにでもズル出来ちゃいますよね…」
 その台詞に、久島の眉がぴくりと動く。若干、気に障る部分があったらしい。彼は薄く瞼を開き、少女が頷いている光景を目にした。そして見過ごせない箇所を指摘した。
「…私は電理研内部の規則は一切破っていない」
「そもそも、その規則ってのを決めるのが、久島さんじゃないんですか?」
 怯む様子がないミナモの弁に、久島は黙る。どう足掻いても、分が悪いと思ったからだ。
 彼は自ら述べたように、別に電理研職員としての規則を誤魔化している訳ではない。だからいくらでも彼女への反論は可能である。
 しかし、彼が内心に抱えるある矛盾が、今回の件の根底に位置している。だからミナモへの反論のあまり、喋り過ぎてはそう言う面でボロを出しかねないと感じた。
 久島は出されたティーカップを持ち上げ、紅茶を啜る。そうやって時間を潰しにかかった。答えない選択を取る事で、少女からの追求を交わそうと試みた。
 ミナモは目配せするように久島に視線を向けている。しかし、相手側からの反応はない。壮年の男は静かに紅茶を嗜むのみだった。
 やがて、ミナモは笑う。ぺこりと頭を下げた。
「――久島さん、ありがとうございます」
 その台詞に、久島はちらりと視線を向けた。ティーカップから口を離す。
 ミナモの顔に浮かぶ満面の笑顔が眩しいと感じる。それを目の当たりにしていると、そのチケットの出自との落差が酷いものだと思う。
「いや…気にしてくれなくていい」
 カップとソーサーをテーブルに戻しつつ、久島はそう答える。彼は後ろ暗さを抱えている。「プレゼント」と言えば聞こえはいいが、実状は自らが使う当てがないチケットを使い回しただけなのだから。例えそれが世間一般的には入手困難なプラチナチケットだったにせよ、彼自身は何の労力も用いてはいない。
 更に指摘するならば、ミナモには告げてはいないが、彼自身はそのチケットの存在が面倒で仕方がない。言わば、厄介払いとしてこの少女に押しつけた格好なのだった。
「――今度は、私が久島さんに何か差し上げますね」
「…気にしなくていいと言っている」
 満面の笑顔でミナモにそう言われると、久島は気後れを感じる。同じような台詞を口の中で繰り返していた。しかし、いつもの彼とは違い、それは明晰な発音を成していない。
「――じゃあ…久島さんの誕生日って何時ですか?」
 それでもミナモには聞き取れていたらしい。はにかみ笑いつつ、そんな事を訊いてきた。
 久島はそれを怪訝に思う。何故今それを訪ねるのかと思った。しかし訊かれた事柄自体は非常に単純である。迷う訳もなく、彼はそのままを答えていた。
「…10月7日」
「じゃあ私、その日に向けて何か準備しておきます。誕生日プレゼントなら、久島さんも断りようがないでしょ?」
 すかさずそんな台詞を突きつけてきたミナモに、久島は呆気に取られた。思わず身体が硬直し、少女の顔をまじまじと見つめた。
 人工島の神からの無遠慮な視線を受け止める中学生の少女は、その顔ににこやかに笑みを湛えている。その表情をひとしきり眺めてから、久島はぼそりと言った。
「……君、案外策士だな」
 その感想めいた言葉に、ミナモは更に明るい笑みを閃かせた。彼女はどうやら額面通り誉め言葉と受け取ったらしかった。



「その日を迎えたなら、私は83歳だ。最早祝われて嬉しい歳とは言えない」
「でも、波留さんと一緒に過ごすのは久し振りでしょ?」
「…確かにな」
 この少女にこう指摘されてみれば――誕生日などを意識したのは50年振りだろうか?
 ――50年前のあれ以来、その日は意識しないようにしていたから。
 自分が歳を取れば、それと同等だけ、波留も歳を取る。時の流れは皆に平等で、誰にも止められない。しかし眠り続ける波留は、その時間を無為に浪費しているだけだった。
 時は止められないが、誤魔化す事は出来る。久島はそうやって何時しか歳を数える事を止めた。自らを全身義体としてしまえば、肉体の時間は止められるのだ。波留自身の時をも誤魔化そうかと迷った時期もあったが、彼は最終的には思い留まり、時の流れを放置するに至っていた。
 自分の時は誤魔化したのに、横たわる波留の時は確実に流れてゆく。そこから眼を反らすため、誕生日の事など意識の埒外に置き続けた。誕生日など、波留の1年が無為に過ぎ去った証明でしかなかった。
 しかし、今年は違う。50年振りにまともに向き合うのも、いいのかもしれない。残念ながら波留のそれは疎遠な頃に終わってしまったのだが、来年以降の機会を待とう――。
 そんな風に自らの想いに浸っていた久島だったが、その波留の話題に、ふと思い出したことがあった。彼は気付いたようにミナモを見る。そして何気ない口調で言った。
「――ああ、言い忘れる所だった」
「…はい?」
 呼び掛けられた少女はきょとんとする。そんな彼女に、久島は淡々とした口調で告げた。
「そのチケットの件は、君と私の間のみの秘密にしてくれ」
「え?」
 ミナモの口から怪訝そうな声が漏れた。――誰にも言っちゃいけないって事?つまり――。
「決して波留には言わないでくれ。何と言うか…――」
 ミナモが考えていたその人名を、久島は明確に告げる。しかし彼の言葉はその直後に何かを言い掛けて、途切れていた。何を言おうか、言葉の選択に迷っているらしい。
 彼は僅かに首を傾げ、眉を寄せる。天井を見上げる義眼の目許に前髪が落ちて来て掛かった。しかし彼は鬱陶しいと思わないのか、それを払おうともしない。そのままの姿勢のまま沈黙を保った。
 やがて、その唇が動く。相変わらず淡々と、静かに言った。
「――…何と言うか…気味が悪い」
「…何ですかその表現」
 久島がようやく導き出してきたその表現に、ミナモは呆れたような言葉を漏らす。――気味が悪いって…久島さんの感じ方だから何とも言えないが、もうちょっと他の表現はないのだろうか?
「何か違ったか?」
 久島は怪訝そうな声を上げた。彼自身は、少女からの指摘を良く理解出来ないらしい。
 その様子に、ミナモはやけに大袈裟に溜息をついた。



「――判りました。コンサート、楽しんできますね」
 会話は一段落し、ミナモはチケットをトートバッグの中に入れる。そしてそう言ってソファーから腰を上げた。大きく頭を下げて挨拶を行った。
 そろそろおいとまする時期だと、彼女は思った。あまり長居すると「偉い人」であるはすのこの久島にも迷惑が掛かる。それに、やはりこの応接スペースは、自分には合わない場所だと感じていた。端的に表現するなら、居心地が悪い。
 ミナモの退出の仕草に、久島は鷹揚に頷いた。彼も席を立ち、来客者を見送ろうとする。そんな彼に、ミナモはまたぺこりと会釈した。トートバッグの肩紐を肩に掛ける。
 そしてミナモはセーラーの裾を翻らせ、ソファーとテーブルの隙間を抜けた。きちんと立った少女は、今度は膝の前に手を合わせてお辞儀をする。――意外に礼儀が成っている少女だと、久島は感じた。
「私、クラシックコンサートって初めてなんです。…気を付けなきゃいけない事って、あるかなあ?」
 その台詞は、ミナモにとっては呟きだった。久島に訊かせたつもりではない。しかし、それを耳にした久島は顎に右手を当てる。ミナモの頭から爪先までを見定めるように視線を浴びせた後、口を開いた。
「そうだな…ガラコンサートだから服装には気を遣うべきだが、君ら学生は制服で行けば問題は起こらないだろう。今の君の格好で充分だ」
「アドバイスありがとうございます!」
 ミナモは満面の笑顔でそう言った。そして更に大きな一礼が伴われる。本気で感謝しているらしい。やけに勢いが感じられるその態度に、久島は僅かに引いた。
 内面は老人である人物の内心など、ミナモは気に留めない。快活な印象を湛えたまま、制服に合わせた革靴が床と接して音を立てた。そして、半ば小走りに退出してゆく。
「本当に久島さんって、いいひとですね!」
 最後に、ミナモは出入り口の前にてそんな言葉を残していた。少女の明るさが自動ドアの向こうに消え、そしてその扉は静かに閉ざされた。
 その情景を久島は応接スペースの傍らに立ち、遠巻きにして眺めていた。少女が立ち去った今、奇妙な騒がしさの雰囲気は徐々に掻き消えてゆこうとする。
 久島は瞼を伏せた。軽く溜息を漏らす。
 ――何処か気疲れしてしまっていた。あんな元気な少女と会話する機会など、電理研統括部長としての地位ではあり得ない。その元気に当てられた感がある。
 伏し目がちに目を開く。視線を落とすと、テーブルの上のティーカップが視界に入った。液体が半ばまで消費されたカップと淹れられたそのままのカップとが、そこにある。どうやら彼女は殆ど飲まなかったらしい――彼はそれを悟り、僅かに眉を寄せた。
 何だかんだで、彼女はそこまで私に気を許していないのだろうか。波留相手と違って――。
 …――まあ、お互い様と言う奴か。
 久島はそう思い、自嘲するように笑う。今日、この場で初めて彼は、笑みと言う奴を漏らしていた。
 女子中学生との距離の取り方は、全く良く判らない。「波留のバディ」で「彼の恩人」なのだから、こんな感じでいいのだろうか。感謝の意の表し方として、何も間違っていないだろうか?
 彼はそんな事を考える。しかし、答えは彼の中からは見付からなかった。
 これから、見付ける事が出来るのだろうか。
 82年の人生を歩んできたはずの彼は、そんな事を思った。
 遅れましたが、久島誕生日SSです。
 
 何故か毎年恒例になってしまっていますね。波留さんやミナモの誕生日ネタはついぞやった事がないと言うのに。
 アレだ、そもそもの2008年がアニメ終了直後で熱持ってるうちに誕生日SS書けちゃったもんだから、そのまま恒例になっちゃったんだ。人生ってそんないい加減なものです。

 で、今年は麺類シリーズから離れました。もうネタ出ねえよ!
 波留さん久島さんで大人げなく流し素麺ガチバトルとかちょっと考えてみたけど、何だそらで終わりました。いやもうマジで何なんでしょうそのネタは。

 麺類から離れたついでに、久々にアニメ時間軸で書いてみました。
 最近すっかりセカンドづいてますし、セカンド以外でも書いてるのは50年前時間軸ばっかりでしたし。でも展開上、波留爺ちゃんは出せなかったけどねーもう随分書いてないのでイメージ忘れそうで怖いですよ。

 アニメ10話と11話の幕間劇です。
 10話Cパートで久島の元にカズネから招待状が届いて、さてどうするかなあと考えた後の出来事。あれ、監督絵コンテでは「ミナモにやるかな」って書いてあるんで…じゃあミナモ呼び付けてこう言う事になったんだろうなと言う想像です。BOX2のあの絵コンテでソースが付く前から「きっとそういうノリなんだろうな」と思ってた訳ですけど俺は。

 10話のエライザ事件のMVPはミナモですからね。潜って戻って来なさそうだった波留を奪還してきたんですから。
 そして波留第一の久島がそれに感謝しない訳はないんです。でも、彼は「波留第一」だから、他の人間への距離の取り方がいまいち判らない。ましてや、相手は普通に生きてても縁薄いはずの女子中学生です。82歳の現役バリバリ実業家内心困りまくりです。感謝の意は伝えたいけどこんな感じでいいのかなと、微妙な距離感を図りつつも頑張ってみましたって話です。

 ミナモはミナモで、久島とは縁薄かった訳です。あくまでも彼女は波留さん大好きで、久島さんは「波留さんの茶飲み友達」に過ぎない。壁を作ってるつもりはないけど、それでも一歩踏み込み辛い部分はあって然るべき。
 彼女は元気娘ですけど、普通の15歳のJCです。いきなり巨大企業に呼び出されて応接間に通されたら、多少は委縮するでしょう。それは6話で小湊精機を訪れた際の仕草からも読み取れると思います。

 そんな、ふたりして微妙な距離感があるようなやり取りです。
 ま、久島は頑張って歩みよろうとしたんだけど、例の11話で思いっ切りミナモの横っ面張り飛ばすような態度を取るんだけどさ!ほんと大人気ねえよこの爺ちゃん!

 そんな感じです。それでは次回、セカンド14話でお会いしましょう。
 あっちは重い展開が続いてる(続く)んで、これがちょっとした息抜きになれば幸いです。
 
11/10/10

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