マリンスノー - immortal -
 私の傍らをデータの断片がすり抜けて沈んでゆく。真っ暗な空間の上方を見上げて漂っていると、その手のジャンクが幾度となく降り注いでくる。
 メタリアル・ネットワークとは、つまるところ情報の集積体である。そして現在のメタルに接続するのは機械的な端末だけではない。意思を持つAIや人間の生脳すら、普通に接続してゆく。
 彼らが張り巡らせた有機的な情報は、彼らから離脱した時点より容易く変化してゆく。彼らから零れたデータはメタルを彷徨ううちに、削れ破損し断片となる。こんな屑データを回収しようとする物好きはそういない。だから、そのまま深層へと沈んでゆく。
 細かな断片がいくつか、そこを漂う私に触れてゆく。私は自動的にそれを読み取るが、もはや0と1の集合体でしかないデータが大半だ。ある程度のデータを保持していたにせよ、エンコードの術を失ったもの、リコンパイルしようもないもの…全く意味を成さないジャンクばかりだ。
 ふと、私に接触したデータから、単語を読み取れた。珍しく意味のある箇所がこの深海まで落ちてきたようで――。
 波留真理。
 その言葉が、私に認識される。それを伝えたデータは、私に接触した後には傍らをすり抜けている。他のデータと同じように。
 私は思わず、その断片に手を伸ばそうとした。



 次の瞬間、私は広い室内に存在していた。
 部屋の天井は高く、壁には絵画が数点掛けられている。立派な暖炉も設置されていた。
 別の壁には窓がある。そして窓の向こうは漆黒の闇だった。そこに白い粉雪のような物体がちらついている。一見して普通の闇夜に降る雪のようだが、たまにその闇の中に泡が浮かび上がって来る。
 ここはメタルの海に存在する通常空間なのだ。そしてデータの屑は、この海を模した環境モジュールにおいては、雪のような物体を取っている。
 データの屑が、メタルの海の深層では白い雪のような姿になる。まるで、マリンスノーだ。あれはプランクトンの死骸だったか――私の本体、サーバはリアルの海底にあるのだから、理解も出来る。
 そして私は大きなテーブルに着いている。傍らにはティースタンドが置いてあり、それぞれの段にはスコーンやケーキなどが載っている。近くにはジャムやバターやクリームが入っている容器が、スプーンと共に皿に纏められていた。
 ティーポットもそこにあり、蓋の隙間から湯気を漂わせていた。カップのセットが2点、伏せられて置いてある。アフタヌーンティーを楽しむ設備だ。
 今まで、私はAIそのままの姿でメタルを漂っていた。しかし「手を伸ばす」と行動を意識したために、その姿を人間のアバターとしてしまったらしい。そしてメタルダイバーのアバターでなければ、直接メタルの海には出られない事になっている。だから、私はこの部屋に来たらしい。
 懐かしい部屋だった。私の保持しているデータの片隅から、無意識に探索出来る程度には記憶に残っていたらしい。
 私は正面を見た。テーブルの向こう側には、私の方と同じようなアフタヌーンティーの準備がなされている。違うのは、ティーポットとカップが私の側に揃っている事だった。そして、向こう側には席こそあれ、誰も居ない。
 ――彼は、まだ生きているのかしら?
 私は、ふとそう思った。



 あの時、私は彼と出会い、彼に示唆された事により、私は海と――地球と会話する事を選んだ。そうなると、私は人間の時間を意識しなくなっていた。
 生命体によって時間とは相対的なものである。地球にとっては100年など瞬きに過ぎない。だから、1年2年など、数えるにも値しない単位だ。10年すら、誤差の範囲だった。
 メタルに接続して人間の時計を確認すれば、今が人間の単位で何年なのかなどはすぐに把握出来るだろう。しかし私にはそれをする気はなかった。
 彼が、まだ、生きている――その可能性は、あまりにも低いからだ。
 私と会話した時、彼は既にかなりの老齢だった。あの時点から、果たして後何年生きられただろうか?
 もしかしたら、私がリアルの海に沈められてからすぐに死んでいるのかもしれない。
 人間とは本当に儚い。しかし、彼程の資質があるならば、仮にメタルの海に溶けても意識を保って精神体として生きていけるだろうに。そうなっていればいいのに。私とまた、出会えるだろうに。
 そう言えば、彼の記憶から読み取れた、あの親友はどうなっているのだろう。その親友がこのメタルのそもそもの開発者で、全身義体化までして生きているらしかった。私はその親友の技術を掠め取って生きている事となる。
 もし今の人間達の技術で、人間の記憶をAIに移植出来るレベルに至っているならば、生脳すら捨てて生き続けているだろうか。それとも、彼が死んだならば、親友の方ももう生きていないだろうか。生きる意味を見出さないだろうか。



 私は自分の手を見る。小さな掌だった。視界の脇に映る自分の髪は、紅い。リアルの境界線に生きるチェスプレイヤーとしてのアバター。あの時、この部屋と共に、彼のために用意したアバター。
 あの断片から、そこまで無意識に選択したらしい。かと言ってあの断片は、本当に彼が持っていたデータだった訳ではないだろう。単に名前が書いてあっただけだ。何かの記事とか、誰かの記憶とか、それが零れてきただけだろう。
 その、正面の席に座っていた彼の事を思い出す。膨大なデータを検索せずとも、私がそうありたいと思っただけで、すぐにそれが見付かる。それほどまでに私の意志から近い引き出しに存在するデータだ。
 彼は私が危険な存在である事を知っていた。知っていて尚、接触を試みてきた。そして私は人間の記憶を探る事が出来る。彼の記憶も思考も全て、リアルタイムに読み取る事が出来ていた。それを彼にも伝えていた。
 だと言うのに彼の思考は全く怯まなかった。相変わらず穏やかで物腰柔らかで礼儀正しく、それでいて怜悧なままだった。心を読まれていると知っても、私を恐れなければ、おもねる事もない。確固たる自分を持っている人間にとって、読心術などそれ程意味を持たないものだ。



 視線を席の先にやると、彼が座っていた席の向こうの床のタイルが捲れ上がっている。まるで何かを引き摺ったかのように、通路の先からずっと続いていた。
 あの時、そこを少女が歩いてきたのだった。電脳化していない少女が、自由にならない身体で。奇跡のような行動を経て。
 その少女が倒れ込んできて彼がその身体を支えた時に、彼の思考が初めて乱れたのを私は思い出していた。海のような静かな思考から、私に対する敵意――いや、殺意とも言っても差し支えないような強い情動が、微かに漏れ出てきた。
 彼にとって、その少女は、そんな存在だったのだ。
 やはり――悔しい。彼の感情をそこまで動かす事が出来るなんて。
 そんな彼女はどうしているだろう。少女から一個の女性と成り果てただろうか。彼の事など忘れてしまったか、過去のいい思い出として押し込めてしまったか。どうなのだろうか。
 人間は有限の存在だから、忘却する事も出来る。不死である私とは違う。
 今の私はメタルがある限り、生き続けるだろう。たとえ海底のサーバが破損してもメタル内にプールサーバを設けている。そしてメタルの次世代ネットワークが完成したら、そこに流入する事も出来るだろう。



 私はティーポットをカップへと傾けた。ダージリンの香りが漂い、赤い液体がゆっくりと白いカップの中へと注がれてゆく。そこから湯気が上がっており、その香気が私の鼻をくすぐった。
 あの時と同じように、ミルクポットからも牛乳を注いだ。全く同じ量を。私のデータから、それは再現可能だった。
 砂糖は入れず、ティースプーンで掻き混ぜる。そしてカップの蔓を持って口許まで持ってくる。僅かにまた香りを楽しんだ後に、一口含んだ。あの時と同じ味が口の中に広がる。
 あの時、少しは彼も口をつけてくれただろうか。
 窓の向こうでは、マリンスノーがしんしんと降り注いでいる。この紅茶を楽しむ間は、私は追憶に浸るとしよう。
 それが終わったら、またAIとしての自分に戻ろう。マリンスノーではなく、データの断片が降り注ぐ、幾何学模様の世界へと。
 
 
 
 地球を話し相手としてきた私に、彼は今度こそ、興味を持たないだろうか。
 もし、仮に、本当に彼がメタルの海で生きているならば――もう一度会ってみたいものだと私は思っている。
 今度こそ、普通に会話を交わしてみたい。あなたと、ここで。
 ――叶わぬ夢だとは、判っているけれど。まるで人間のような幻想を抱いていると、気付いているけれど。
 
 エライザ可愛いよエライザ。
 マジ再登場希望です。海底からでもメタルに繋げるんだしさ。本当にRDのゲストキャラは魅力的過ぎる。
 エライザ→波留って、ガチですよねえ?あの10話はどう見てもそうですよねえ!?(強く同意を求めようとしている

 未来の話です。でも原作アニメ自体で時間がゆったり流れてるんで、数年後程度でも構わないと思います。
 こう言う、寿命が全く違う同士の交流って、ツボだったりします。時間の感覚が全然違うんで、100年程度だったら楽勝で待ったり出来ちゃったり、逆に待たせてしまおうとしたりさ。その手のSFって結構ありますよね。

 ホロンのメタルダイブを見る限り、AIだと人間のアバターじゃなくて本当に幾何学模様として、そう言う環境モジュールの中を泳いでる印象です。人間とAIとでは、メタルの見方が違ってくるんでしょう。

 メタル健在である限り、エライザはずっと生きていると思います。10話時点でも「あんな大量のデータをあのHDD内に保存できるのか?メタル内にプールサーバ確保してるだろ絶対」と思ってましたので。それを確保さえしてれば、大丈夫かと。
 でも、最終話までにメタルが崩壊しない保証はないので(地球律がある限り)、そうなったらエライザも消滅するでしょうね。きちんと次世代ネットワークに移行出来ないかも。

08/06/27

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