彼の眼前には暗い深海が広がっている。 懸命に手足を動かすが、見上げる海には光は見出せない。ひたすらに冷たい水が彼の身体を蝕んでゆく。 肺が悲鳴を上げている。胸が苦しい。指先には痺れを覚えていた。既に平衡感覚も怪しくなっていて、自分が果たして本当に上昇しているのかも判らなくなって来ていた。 宙に伸ばし動かし続けている腕が、水から泡を生み出す。その泡に視界が遮られている。 そのうちにその視界も歪んだ。視界を染めていた暗い色が徐々に消える。視界の隅からぼやけてゆく。 限界が来た。彼がたまらず大きく開いた口から、気泡が沸き上がる。そしてそのまま、思わず海水を吸い込んでしまう。 それは致命的な行為であると、彼は知識として理解していた。海に生きる人間としては常識である。しかし最早、意思が身体を制御出来ない段階に来ている。こうなっては、終わりだった。 口の中に潮の味が広がる。喉の奥までが海水に満たされている感触がするが、それも徐々に感じられなくなってゆく。 彼の身体は暫く海中でのた打ち回るように足掻いていたが、そのうちに手足からも力が抜けて行った。水の浮力に従い、喉が反り返り頭が上がる。身体を僅かに痙攣させ、その深海に漂わせる。 末期の呼吸すら海水に阻害され、口許から大きな泡がひとつだけゆっくりと上がってゆく。虚ろに見開かれた瞳がぼんやりと、遥か遠い海面を見上げていた。そこには相変わらず光は透過されていない。 |