明快な人々
 定時も1時間ばかり過ぎた頃になると、夏の終わりとは言えそろそろ日が傾いてくる。部屋の窓からも夕日が斜めに差し込んでくるようになり、俺の机の上の書類も斜めに影を作るようになってきていた。無論、室内灯の設備も整っているため、仕事に支障はない。
 仕事――定時も過ぎたと言うのに机の上には相変わらず書類の山。なかなかそれは崩される事がない。我ながら手際が悪いと思う。が、それを嘆いたところで、書類の山はどうにもならない。

「――まだ帰らぬのか。仕事熱心な事だ」
 そんな台詞と共に、この部屋の入り口に俺の親友であるロイエンタールが顔を見せた。部屋に残っていた数名の部下が、遠慮なく入室してきた彼に対して慌てて敬礼を行う。そして奴は俺の部下達を一向に気にする事無く、俺の就いている机に向かって足を進めてくる。
「…帰らぬのではなく、帰れぬのだ」
 俺は書類に視線を戻し、そう返した。自然に苦虫を噛み潰したような表情と声質になっているような気がするが、帰れないのは自業自得である。
 手元の書類に大きな影が差す。俺の前にロイエンタールが立った。彼は無遠慮に書類の山のひとつを手で軽く叩く。
「よくもまあこんなに溜め込めるものだ。ある種の才能だな」
「悪いが皮肉は間に合っている」
 俺は書類に目を近付けた。別に影や悪筆のせいで字が読めないとかそう言う訳ではないが、まあ気分だ。上からは溜息と共に言葉が返ってくる。
「俺と卿では同等の立場だから、おそらく処理する書類の量もそれ程変わらんと思うのだがな…」
「卿はもう終わったのか?」
「明日が月末で最終的な決済を出さなければならない書類以外はな」
 …それは俺にとって信じ難い事だった。同じような量の書類を、もうそこまで処理が終わっているとは。
「…卿は用兵だけではなくデスクワークにも優れているのだからな。俺は卿に足元にも及ばない」
「こういうのはコツだ。卿も大佐なのだからそろそろコツを掴むものだな」
 そのコツとやらが判れば俺もここまで苦労はしないのだろうか。そうは思うが…それを学ぶまでにまた膨大な時間を費やすのもまた、俺のような気がする。
 が、まあ、自業自得とは言えそれがもたらした現状では、いつまでも喋っている余裕もない。会話しているうちに今手に取っていた書類に目を通して納得して、サインを入れて決済箱に放り込む。部下が逐一処理してくれるおかげで、決済箱には書類はなかなか溜まっていかない。

「ところで邪魔をしに来ただけなのなら、そう言う訳で俺は忙しい。卿と酒を飲む暇もない。誘いに来てくれたのならすまんが、早急に帰れ」
 箱に書類を放り込み、また新たな書類を手に取ったついでに俺は顔を上げた。奴を見てそう告げると、奴は苦笑を浮かべた。
「そう邪険にするな。差し入れに来てやったのだ」
「………差し入れ?」
 予想もしていない答えだった。俺が小首を傾げると奴は楽しそうな顔をして、手に持っていたらしい袋を俺の机の前に置いた。それは、俺には馴染みがある包み紙だった。
「これは…」
 驚いた俺の顔を見たのだろう、奴はとても嬉しそうな顔になっていた。
「卿はこの店のパンが好きなのだったな」
「ああそうだが…それにしても…」
 何を言っていいのやら。俺は驚きと戸惑いを露わにして、包み紙を開けた。がさがさとした手触りの紙質は、手に馴染んでいる。包み紙の口を開くと、途端に香ばしい香りが漂ってきた。
「流石に閉店間際なのでな、適当なものを挟んで貰った」
「それはまあ…もう7時だしな…」
 適当と言う表現が相応しいとは思えない程度の食材が、白パンに挟み込まれている。あの店は品揃えがいいから俺も気に入っているのだが…それにしたって…。
「…どうかしたか?卿の気に喰わんものでも入っているか?」
 包みを開いて、パンを覆う薄紙からパンを取り出しても尚続いている俺の戸惑いの長さが気に掛かってきたのだろうか。奴の顔から嬉しそうな表情が消えていた。口調も何だか不安そうな代物に聞こえてきた。
 ――周囲からは色々言われるこいつも、こういう所は単純だよなと俺は思う。やたら皮肉屋で色々必要のない事を言う割に、俺がちょっと突き放したり思い通りの反応を示さないと、不安になるのが常らしい。だから俺も、奴がそんな反応を示したら苦笑を浮かべつつフォローに回るのが常だ。
「そう言う訳じゃないよ。俺はそんなに偏食じゃないし、あの店の食材選びと味付けは大好きだ」
「ではどうした?」
 奴に真面目くさって聞かれると、俺の苦笑が本当の笑いに変質していく。
「いやさあ…大佐の卿が大真面目にこういうものを買いに行ったのかと思うと、ちょっと…」
 俺がそう理由を話しても、奴は納得できないようだ。まだ真面目に問い返してくる。
「とは言え、卿も大佐だぞ?昼休みなどに嬉しそうに買いに行く姿を良く見ていたが」
「俺はあの店には軍人成り立ての頃からの馴染みだしなあ…任地を飛び回る生活だから毎日ではないが、平時勤務で軍務省待機の際にはずっと世話になっていた」
 だからあの店の味には安心できると言うのもあるのだろう。そこまでは言葉には続けなかった。とは言え帝国軍は軍服自体で階級が判るようになっているので、市井の庶民向けの飲食店に大佐が普通に昼食を買いに行く光景は…確かに奴が指摘するように妙なのかもしれない。その辺も俺の笑いの対象になっているのだが、奴にはあまり理解できないようだ。

 割と長い小休止になりつつある。ついでなので奴と話をしながら差し入れを食べる事にした。こう(自業自得とは言え)忙しいとなかなか奴とも話す機会がなかったから、その機会すらも差し入れてくれた奴には感謝の気持ちがある。
 気を利かせてくれた部下が、俺と客である奴に対してコーヒーを持ってきてくれた。とは言え、立ち姿のまま陶器の白いコーヒーカップを手にしている奴の姿は何故か奇妙だ。
「――今日は何時頃に帰宅するつもりだ」
 豆の香りが漂う中、奴はまた俺にそんな事を訊いた。俺は判らんと答える他ない。何せこの山積みの書類を、今日と明日の2日間で処理してしまわなければ9月になってしまうのだから…そんな事を半ば愚痴と共に返答すると、奴は何度目かの溜息をついた。
「それはいかんな。せめて9時には帰れ」
「何故だ?折角差し入れも貰った事だし、俺はもっと粘るつもりだったが」
「…卿が粘っていては部下もなかなか帰れんだろうが…まあそれはともかく」
 奴はそう言いつつまた机の上に何かを置いてきた。まだ何か隠し持っていたらしい。それはちょっとした形式に則ったらしい包装をされていた、少し大振りの箱状の物だった。そして俺はこの程度の箱に入っているものと言えば、いくつかの類推が出来た。
「…開けてもいいのか?」
「俺は卿に開けて貰うためにそれを用意したのだが?」
 素直ではないが奴らしい返答だ。許可を貰ったと認識し、俺は包みに手をかけた。ある程度の形式――つまりは贈呈品とおぼしき包装であったために、あまり乱暴には扱わない。丁寧に貼り合わせの部分から剥がして行き、剥がした包装紙はきちんと四方形に折りたたんでやる。――妙な所で几帳面だななどと言う突っ込みが合間に入れられるが、俺は苦笑するのみだった。
 包装紙を剥がされて露わになった箱を見て、俺は類推のひとつが当たっていた事を悟る。――ワインの箱だった。少々小振りであるから、これはハーフボトルか。酒飲みの悲しい習性か、自然に銘柄を確認する。ワインとしては中級程度の物で、そこまで高級ではない銘柄だった。そしてこれはあまりアルコール度数も高くなさそうだ。
「…どうしたんだこれ」
 俺は中身の意外さに驚き、そう訊いた。「酒である」と言う事自体は類推可能であったが、普段貰う酒とはあまりにかけ離れた代物であったからだ。
 奴から酒を貰う事もその逆も、俺達の関係では良くある事だった。お互いの家を訪ねる際には酒の一瓶を携えてと言う事が殆どだ。何せ、大抵の場合が酒盛りになるから。
 奴にとっては俺の意外そうな顔も想定内だったのだろう。当然のような顔をして、台詞を返してきた。
「卿へのプレゼントのつもりだ」
「…プレゼント?一体何の風の吹き回しだ」
 俺達において「酒のやり取り」とは普通に行われる事で、それに「プレゼント」と言う認識は全くない。それをこう改まってやられると言う事は………判らん。何かあったか?昇進祝いなんぞ、お互い同時期に昇進するのが常だから改まってやった事もないし、祝いは大抵そのまま酒盛り直行であるし。それに大佐に昇進したのはそれ程最近の話でもない。
 俺が首を捻り続けていると、奴は怪訝そうな表情になる。
「……もしかして、本気で判らんのか?」
 何時までも悩み続ける俺を見て、奴は呆れたような声を出していた。が、俺としてもそんな反応をされても非常に困るので、まともにこう返す他ない。
「ああ………申し訳ないが本気で判らん」
 真面目に俺がそう返した事なのか、奴は大きく溜息をついた。手を振って呆れ返る様子だ。
「…書類の期日に追われているから、日時はきちんと把握していると思っていたのだが」
「何だよそれ」
 いきなり書類の山に対する皮肉が来た。俺はそう思った。だから俺は憮然としてしまう。しかし奴は呆れ返ったまま、台詞を続ける。
「今日は8月30日だろうが」
「そうだが…それがどうかしたか?」
「まさか、ここまで言われても、本気で判らんのか?」
「だから判らんと言っているだろう」
 ここまで念を押されると、馬鹿にされているような気分になる。だから段々俺の表情が険悪なものになってきたような気もする。――何の日だったか?問われても書類の事で頭が一杯で、なかなか記憶の中からそれを引っ張り出せない。それに対する忸怩たる物もあったりする。
 そんな事で頭を悩ませていると、不意に俺の頭に軽い圧力が加わった。そのまま一気に髪が掻き回される。
「おいこら、止めろ」
「何故だ?卿が自分でいつもやっている事だろうが」
 奴の大きな手が俺の頭の上に置かれていた。その手が俺の髪をぐしゃぐしゃに掻き回して行く。
「俺が自分でやるのは癖であって、他人にやられて嬉しいものでもない!」
 そう強く言うが、何せ頭を抑えられているせいで顔を上げられない。妙な所で力を使われてしまっている。
 そんな事を思っていると、奴は俺に顔を近付けてきた。俺の顔を覗き込むようにする。最近近くで見ていない、奴の顔がすぐそこにあった。楽しそうな顔をしていて――右目の黒も左目の青も、今は全く同じ感情を見せている。
 そして奴は俺に視線を合わせたまま、事も無げにこう言った。
「誕生日おめでとう――と言う事だ」

 俺は何の話題を出されたのか、一瞬判らなかった。が――誕生日と言う言葉を出された事に気付き、無意識に記憶の中を検索すると、自分の誕生日が今日である事に気付いた。そして、ようやく納得が行く。
「そうか、今日は俺の誕生日だったか」
「他人事のように言うな。大体卿は俺の誕生日は覚えているくせに、毎年毎年自分の誕生日だけはすっかり忘れてしまっている」
「そうだったか?」
「全くもってそうだ」
 苦笑と共に溜息をつき、ようやく奴は俺の頭を解放した。何だか安定感がないような気がして、俺は自分の手で頭に触れた。大きく掻き回すと乱れた髪の感触が伝わってくる。
 が、それはそれとして、疑問はまだひとつ残っている。疑問のひとつは誕生日で合点が行ったついでに、俺はそれを口に出して奴に訊く事にした。
「しかし、俺へのプレゼントにしてはこの酒はちょっと軽過ぎはしないか?」
 書類の処理で忙しそうだからと言う理由でフルボトルではなくハーフにしてきたのかもしれない。が、別に1回で1本を飲み切る必然はない。そしてそれ以前の問題として、俺達が普段飲んでいる酒と較べると、あまりに度数が低い。これもまたデスクワークへの負担を考えたのかもしれないが、それにしても…。
 俺の疑問に対し、俺から顔を離して立ち上がった奴は当然のように返答する。
「ああそうだな。甘くて飲み易い酒を選んできた」
「…何故そんなものを」
 新手の嫌がらせか?――などと訊いてしまいたくなるが、そんな事を言ったらまた奴は不安そうな顔をするのだろうか。それとも相変わらず皮肉の応酬をしてくるのか。俺にはそのふたつのどちらかまでは判断がつかなかった。
「だから9時には帰れと俺は言っている」
「…訳が判らんぞ」
「判らんのか?卿は結婚したのだろうが」
「そうだが…それが何か関係があるのか?」
 何故そこでそんな話題が出る。俺には全く訳が判らない。が、奴の方は、何故自分がここまで説明しているのに俺が判ってくれないのか。そこが全く理解できない様子だった。
「卿と言う奴は…妻と言うのは何か口実を見つけて、夫と何かを祝いたいと言う生き物とは知らんのか?」
 そこまで言われて、俺はようやく合点が行ったような気がした。思わず手を叩いてしまう。が、それでは…。
「……つまり、卿はこれをエヴァのために買ってきてくれたのか?」
 俺の意外そうな問いに対して、奴は無言で頷くだけだった。しかしそれこそが簡潔な返答だった。
 奴の真意を理解した俺は、段々嬉しくなってきた。奴が俺に何かをしてくれるのは、嬉しいがいつもの事だ。長い付き合いで良く判っている。が、しかし、俺の大切な人のためにも何かしてくれるのだとしたら――。
 これ程嬉しい事はない。
 俺は思わず奴の両手を掴み、ぶんぶんと振った。戸惑い気味で少し腰が引けている奴の態度も気にならない。奴は俺を喜ばせるためにこういうものを買ってきたのだろうが、ここまで喜ばれるとは想像していなかったのだろうか。

 ある程度(一方的に)喜びを分かち合った後、ようやく俺は手を離す気になった。
「――卿は本当に単純だ」
 腕を組んで奴は苦笑気味にそう言った。傍の机にあるコーヒーカップには中身が入っていない。それは俺の手元のカップも同じ事だった。パンも何時の間にかに食べてしまっていた。
「そうか?」
「卿の妻を喜ばせる事をすれば、卿も喜んでくれるのだからな」
「人間、単純なのが一番だぞ。嬉しい事には素直に喜んでおけばいい」
 俺が笑ってそう言うと、奴は目を細めて笑った。――心なしか何だか眩しそうに俺を見やっているような気もしたが、あくまでも気のせいだろう。
 ふと、奴は腕を組むのを止めた。微笑んで俺に言う。
「――さて、卿の邪魔をするのも飽きた。そろそろ俺は辞去するとしよう」
「ああ、色々とありがとう。酒を一緒に飲めなくてすまんな」
「構わんよ、俺は今日は先客があるのでな」
 …奴の場合、「先客」とは女性なのだろう。この忙しいのに少しでも隙があれば女性と付き合っている。親友のこの所業にも、ここまで付き合いが長いと慣れてしまった。もっとも、単なる女好きではないとは、つい最近知った事だが、俺は言葉には出さない。だから笑って片手を挙げるだけだ。
「――機会があれば、卿も俺の家に来るといい」
 そう誘うと、奴は明らかに戸惑った。軽くまばたいた後に、前髪を掻き上げる。
「…卿の家か?夫婦水入らずに立ち入るのは気が引けるな」
「改めてエヴァを卿に紹介したいし、彼女の料理は旨いぞ」
「――……まあ、機会があればな」
 少しの沈黙の後に返された言葉は、この話題に対して奴が俺に言える最大限の好意であると判断した。俺はそれに対してまた笑う。本当に嬉しい。
 俺に対しては律儀な奴の事だから、暇を見つけたら本当に「機会」を作ってくれる事だろう。そうしたら、俺もエヴァに頼んで彼をもてなして貰おう…いや、前もって来客の予定を告げなくとも、彼女の事だ。上手くやるだろう。
 良き親友と良き妻を持った俺は何と幸せな事だろう。そうやって単純に喜べる事も、何と幸せな事か。誰もがそんな幸せを抱けたらいいのにと、とりあえずは今辞去して行った親友に対して思いを馳せる。
 奴は自分の事を複雑な人間だと思っているようだが、俺は奴の事を案外単純だと思っている。只、奴自身が複雑になるように行動しているだけだ。それがまた奴らしいのかもしれないが、たまには単純明快に行動すれば良いのにとも思う。…ごくまれに明快な行動を取られた際には、俺がフォロー役に回っているような気もするが。
 が、それはそれとして。俺は机の上に置かれたままのハーフボトルの箱と、積み上がった書類の山を見比べた。――9時までは粘るとして、この山をせめてひとつは崩しておかなくては明日がいよいよ大変だ。なるべく速く帰れるようにしてやらないと、付き合ってくれている部下に申し訳が立たないし…。
 パンの包み紙をゴミ箱に捨て、俺はコーヒーの2杯目を自分で注ぎに行く事にした。さてと、色々目標も立った事だし、これをどうにかするとしよう。エヴァの微笑を脳裏に浮かべ、俺は背伸びした。
 すげー久々に新作更新です。8ヶ月程度放っておいてすいませんでした。

 元々某所投稿原稿の一区切りをつけて投下した後に「そういやそろそろミッターマイヤーの誕生日だよな」と思い出し、なら黒蜜同盟さんで例年通り投稿企画やってるよなと思って脳内でネタ出しやってました。が、本当に久々に同盟サイト見に行ったら、今年投稿企画やってねえ!残念!
 が、久々にネタが浮かんだ事ですし、別に銀英燃え&萌えが消滅してないのは絵日記の通りなので、ネタを久々にまともに形にしてみました。
 ついでに同盟さんにも、サーチさんにも新URL告知してきて自分の尻を叩きます。どうにかして8月中には移転を終わらせたいなあと……なあと………思います(何この気弱さ)。
05/08/27

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