「風邪を引くなよ」
「提督もお元気で」
 僕がフェザーンに旅立つ際、ヤン提督は僕の手を握ってくれた。
 思い返してみても、ヤン提督が僕と握手した事はそんなにないような気がする。

 僕が提督の家にお世話になってから、ずっとお傍に居させて頂いている。あの当時はヤン提督は大佐だったけど、あっという間に「提督」の地位にまで上り詰めてしまった。彼にはそんな気は全くないようだけど…本当に出世する気がない人はあんなにスピード出世する事はないと思う。
 …んだけど、アッテンボロー提督もヤン提督と似たようなものかと思うと、もしかしたら「本人の要望と能力とが釣り合わない」ってのは、普通言われるのとは逆の意味でも結構ある事例なのかな。ヤン艦隊に居ると、そんな事を思う。どうしてこう、天邪鬼な人達の集まりなんだろう。

 僕が出立するにあたって、ヤン艦隊の人達は色々な物をくれた。暖かい言葉や抱擁、幸運を呼ぶ品物。僕には過分な扱いだと思う。
 ここが僕の家なんだ。僕はフェザーンでの任期を勤め上げたら、早急にここに戻りたい。ヤン提督だけではなく、他にも――全ての素晴らしい人々にも、早く再会するんだ。
 とは言え、この時のフェザーン行きといい、後の地球行きといい…僕がヤン提督の元を離れた際には、彼の元に戻るまでに結構手間を要するんだよな。もしかしたら僕は提督から離れちゃいけないのかなあとも思う。
 ………そう、思い始めていた。

「どうして僕は連れて行って頂けないんですか?」
「私が行けない時にはお前を行かせる。でも今回は私が行く事が出来るから私が行く。それだけさ」
 ヤン提督が家を空け、僕がその留守を守る。そういう事態は僕がまだ軍人ではなかった頃に時々あった事だ。そういう時は普段にも増して家や庭の掃除に手間をかけたりした。提督の自室も遠慮なく掃除した。後で「あの乱雑さには意味があったんだぞ」と不平を言われるのが常だったが、僕はそれに対して整頓した品物のリストを手渡すのも常だった。
 別に特別な事じゃない。査問会の時だって僕は留守番だったじゃないか。ヤン提督のお傍に居たいし提督も出来る限りその望みを叶えてくれたけど、それが全てじゃなかったじゃないか。離れる時に不安を覚えたりもしたけど、それが今生の別れになるだなんて、全く思った事もなかったじゃないか。
 僕も、提督も、軍人なのに。
 戦死するのが仕事――とまでは言わないが、それもまた受容すべきだと言うのに。

 皇帝ラインハルトとの会談のために、ヤン提督は旅立った。僕は敬礼でそれを見送った。
 僕はフェザーンで密かに皇帝――あの時点ではまだ帝国宰相だったが――を見た事がある。確かにあの時点ですら、神々しいまでの輝きを有していた。
 あれ程の、恒星にも似た存在に惹き付けられる人間が多いのが良く判る。彼は只の独裁者ではない。帝国軍の一兵卒から高級将校に至るまで、彼に心底から心酔しているのだろう。
 無論、ヤン艦隊においても似たような状況だと思っている。ヤン提督に対してかなりの混ぜっ返しはあるが、それでもヤン艦隊の幕僚たちの忠誠心は皇帝に対する帝国軍に勝るとも劣らないだろう。この歴史上において、両者は類稀なる恒星であると思っている。

 …おかしいなあ。
 確かに恒星みたいなモノだと思っていたけど、光に包まれてるヤン提督のお姿が良く見えない。手を伸ばしても届かないや。
 提督…――今、何処にいらっしゃいますか?
 僕――僕達を置いて、何処に行ってしまったのですか?
 僕はあの時、提督の名を叫びながら、装甲服を纏って巡航艦の中を駆け抜けて――。



 光に満たされた視界がようやく開けた時には、僕は両手を眼前に挙げていた。手や腕のあちこちには擦り傷や血の痕が残されているが、そこまで酷い怪我は負っていない様子だった。そして手の向こうにはそれなりに明るい照明が見える。人工的な、柔らかな室内灯。
 僕が目を覚ました事に対し、傍に居た白衣の男性が反応する。見覚えがない白衣だから、おそらくは僕達の陣営ではないのだろう。…僕は何だか、酷く疲れている。傷はそこまで深くないが、酷く体が重い。
 
 医者から軽い診察と確認を受け、それから見覚えがある高級将校がやってきた。何故だか僕と縁が深い帝国軍上級大将であるミュラー提督。彼が皇帝の名代として、軍事的かつ政治的に僕に報告を携えてきた。ベッドから立ち上がろうとする僕を彼は制止した。僕はそれに甘え、あまり上手くはない帝国公用語で彼と会話を交わした。
 僕には、互いの声が乾いているような気がした。それは彼が遂に僕と似たような境遇に陥ったからだろうか。他の帝国軍提督も、彼に似た感情を抱いているのだろうか。
 彼らも、遂に絶対者を失おうとしているのだから。

 ミュラー提督が退出し、僕も早目にユリシーズに出立する事にする。僕が医療処置を受けているのは極度の疲弊から皇帝の眼前で気絶したからであり、それ以上の事はない。早く戻ってイゼルローンに対して報告をしなければならない。講和の成立とその条件などを。
 ふと、僕は掌を見た。
 医師の手当てを受けたとは言え、傷を負ってない箇所はそんなに綺麗にされている訳ではない。僕は突入時には装甲服を纏っていたが、漏れてきた血が掌にこびり付いたままだった。それは自分の流血ではなく、他人の返り血ではあるけれど。
 僕は軍人で、あの人も軍人だった。だから、返り血を浴び、自分の血にまみれて当然だ。
 しかし僕には、ヤン提督のあんな姿なんて想像出来なかった。想像する余地すらなかった。
 多分、提督はまた逆で、僕が敵を殺して自分も傷付いて血に染まっている姿は想像したくなかっただろう。だから「危ない事はするな」と、ずっと言い続けてくれたのだろう。

 僕がこの掌で、提督を思い出せるのは、握手したときのこと。暖かくて程好く乾いていて、非常にいい感触。
 この握手だけでかなりの人間から好感を持たれたのではないかと思うが、一方で握手と言うのにはその際の感情が良く現れると言う。握手する相手によって体温は変化し発汗してみたりする。厭な相手や、好意を持っていたとしても緊張する相手との握手はぎこちなくなる。
 だとしたら、僕は提督に対して、自然な相手になり得ていたのだろうか?

 最早、それを問い質す事は叶わない。

 でも、たとえ提督が生存されていたとしても、僕はそんな事は訊かないだろう。訊いてしまっては自然な関係ではなくなってしまうのだから。

 結果的に、掌の感触だけが僕に遺される。提督からはたくさんの物を頂き、遺された。ふとした事で思い出される事もたくさんある。実利的で理由付けも必要ない、様々なもの。

 それもまた、現在の僕を形作る全てだ。
 SS更新強化週間。今週中にはメニューに挙がっていた全てのタイトルのSSを書き上げたいと思っている。
 と言うのもファイル名に欠番が多くなってきて、整理に困ってきたので。何て動機だ。
 まあそんな動機でもいいだろ。構想自体はタイトル挙げた段階で出来上がってるんだから、きっかけさえ作って自分を追い込めば…。絵を描く事を諦めたので、字だけなら何とか連日行けると思います。絵はスキャナ使わずにコミスタとかでやると結構時間掛かるんだよな…。

 前から言ってるように、4巻のユリアンとヤンの関係がすげー好きなんですよね。その辺を書いてみました。

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